音楽放談 pt.2

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90年代の病理part.2 ―The Downward Spiral

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圧倒的な破壊力を持った"March of the Pigs"に続く5曲目は"Closer"。

先行シングルとして発表されたこの曲は、アルバム中でも独特のムードを持った曲で、一番聴きやすい曲でもある。

このアルバムをトレントが完成させたとき、プロモーターだかに「まったく売れないアルバムを作っちまったよ」と漏らしたところ「大丈夫、"Closer"があるから」といったという話がある。

この曲は見事ラジオでもヘヴィローテされ、世界中で「I wanna fuck you like an animal」という衝撃的なフレーズが鳴り響いた。

既に破壊された自己を、かろうじて自己たらしめている存在と、究極のコミュニケーションであるセックスによってのみつながっていられる、むしろそれしか何をも感じられないという、逼迫した心情が唄われる。

「you get me closer to god」という一節が強烈である。


この曲により、このアルバムは前半/後半に分けられるような印象がある。

前半部は徹底した自己否定、自己破壊をし、すっかり瓦解してもうこれ以上はないというところにたどり着く。

そして後半部では半ば以上融解し、もはや意識のみかろうじて存在している状態の中で自らをこうした現状に追いやった原因を追求していくような展開である。

ここからは外の世界から隔離されて、ひたすら内側へと意識が向かっていく。

後悔と、自暴自棄と、他者への攻撃、それによる更なる自己嫌悪。

まさに「Downward Spiral」というタイトにふさわしい展開である。

人を傷つけることでしか自分の存在を感じられない、なんていう奴がいるが、そうして自分が誰かに対して感情なほどに当たっていかないと、リアルに感じられるレベルでの相手からのリアクションを得られないのか、あるいは自分でも見える形で自分の行為の後を残さないといても経ってもいられないのか、そんな心情を覗かせる。

思うに、自分を何かしらの形で意識させるためには、実は憎悪を抱かせるという手段が一番なのかもしれない。

相手は自分を傷つけた相手を否応にも意識せざるを得ないし。

強姦などにおける被害者の辛さというのはそういうところにあるんだろうと思うけど。

後半部では、まさにそうすることでしか自分が確かめられず、もはやどこまでも落ちるという選択肢しかない救いのなさがある。

このアルバムでのトレントのヴォーカルは、とにかく痛々しい。


そしてタイトル曲"Downward Spiral"では、ついに見自らの頭に銃を突きつけ、引き金を引く。

こんな簡単なことでこの苦しい世界と決別できるなんて、思いもしなかった、というのがあまりにも強烈なラインである。

このアルバムが世に出てから、自殺志望者が急激に増えた、という話を聞いたことがある。

このアルバムがリリースされた1994年は、あのカート・コバーンが自殺した年でもある。

若者たちのヒーローであり、彼の楽曲により救われていた者たちは、その死によって自らの拠り所をなくした格好となった。

そんな中で響いたNINの音楽、世界観が、あまりにリアルだったのかもしれない。

その圧倒的な構築性と、人を自らの世界に引きずり込む吸引力をもったこの作品により、新たな代弁者とはやし立てられることになる。

その年だったか次の年だったかには、トレントアメリカで最も影響力の或る25人に選出される、という出来事もあった。


このアルバムのこの流れというのは、あまりに見事である。

楽曲の並び順から詞の内容に至るまで、すべてにおいて聴くものをそこへ導く完璧とも言えるプロセスを持っていると言えるだろう。

テーマがテーマだけに、果たして手放しで褒められるものではあるまいが、このプロダクションは圧倒的である。

NINはこれほど社会に影響力を持っていたが、そのフォロワー的なアーティストは今日に至るまでほとんど見たことがない気がする。

音楽的な影響を受けているバンドはそれこそ無数にいるけど、果たして彼らをフォロワーと呼べるかと言えば、それはできないだろう。

それほどまでに、N INの音楽性は孤高である。


このアルバムの優れているところは、こうした流れの最後に希代の名曲"Hurt”を配したことである。

ここに唯一に救いをもたらしている。

「I hurt myself today to see if i still feel」という一節で始まるこの曲は、悪夢からようやく覚めたような穏やかささえある。

まだ自分には痛みを感じることができることを確かめると、ようやく冷静にあって破壊や逃避と言った手段以外で自分に向き合い始める。

「すべてを手に入れることもできたのに、最愛の友も、最後にはみんな俺のもとを去っていってしまう」というラインが悲しい。

ここで再び攻撃性を覗かせるが、先ほどのような破壊力も迫力もなく、言葉だけが虚しく響く。

「俺はまだここにいる」というサビ前のラインとともに、最後には「もう一度やり直すことができるのなら、どんなにきつい思いをしても、道を探し出すのに」という言葉で締めくくられる。

ここにほんの僅かな希望がさすあたりが、このアルバムが歴史的名盤と呼べる何よりの理由がある。

これが希望か?と思う人の方が多いだろうが、この曲はハマる人が聴くと、本当にたまらないものがある。

今までもう駄目だ、としか言わなかった男が口にした、それ以外の解決策である。

聴くものにも、散々どうしようもない有様を見せつけておいて、最後にはやり直しのきくところにいる以上(=まだ痛みが感じられるところにいる)まだなんとかできる、あとは気の持ちよう次第、とでも言っているようである。

これこそがこのアルバムの救いであり、このアルバムの音楽以上の完璧な構築性である。

日本盤にはJoy Divisionのカバーがボートラとして収録されているが、この曲はアルバムの間に挟まれている。

これはトレントがこの構造をどうしても貫きたかったからに他ならない。

これだけ計算された音楽なんて、アルバムなんて、そうできるものではない。

どれだけ録音技術や多重録音の手段が進歩しても、このアルバムが今なお色褪せないのはその精神性があるからである。


このアルバムを万人に薦めようとは思わないし、聴けとごり押しもしない。

何せ自殺がテーマなんだから。

こんなのを好んで聴く奴の気が知れない、という奴が世の中の大半であろうが、一方でこういう音楽にこそ救われる奴もいるのである。

多分、自傷癖の或る人の精神というのと似ているかもしれない。

決して明るくないし、ネガティヴなムードに終始するが、それがリアルな人に取ってはまさに神がかった輝きを感じるはずである。

凄まじい、というのは、こういう音楽のことを言うのである。