音楽放談 pt.2

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小休止6「どうか感じるか」

感覚と言うのは感情とつながっている。

例えばおいしいと思うものを食べれば、うれしいとか幸せになるし、あるいは触れるものも目にするものも、それらの刺激により何かしらの感情を引き起こされるものである。

音楽だってもちろんそうで、人の作った音楽に感動するのも、きっとそういう感覚と感情の回路がうまくリンクするからなんじゃないかと思う。

実際同じ音楽を好む人同士と言うのは割に気が合うものがある。

とはいえ、音楽だけではないけど、一言に良い音楽と言ってもその種類は多種多様で、静かなものもあれば爆裂爆音なものもあり、人によりその受け止め方は異なる。

それは単なる好みという言葉で片付けてしまうことも可能ではあるが、それはちょっと思慮に欠けるように思う。

せっかくなので、もう少しだけ考えてみよう。


好きな音楽でつながっている、と言う場合、重要なことはその音楽を好むことそれ自体と言うよりは、それにより引き起こされる感情効果についての共感が重要でないかと思うのですね。

同じ音楽を聴いて、同じく良いと言うけれど、一方はほろりと来る感動かも知れないし、もう一方はもっと単純なレベルで言っているに過ぎないかもしれない。

この場合、多分会話は噛み合ないのである。

こういう事態を指して、聴き方が違う、なんて言うんだけどね。

よく言う価値観の類似とか共通とかっていうのは、こういう部分でのことですよね。

そういう意味では表面的な情報と言うのはとっかかりに過ぎない訳で、それらを介して見えてくるその人の感情のあり方や、ものの受け止め方っていうものに共感できるかどうかが重要なんですよ。


で、自分のような、傍から言わせれば音楽ジャンキーのような奴にとっては、殊音楽におけるそうしたシンパシー的感覚ってすごく重要視してしまうんだよね。

馬鹿じゃん、という人の方が圧倒的に多いだろうし、実際そのせいで訳の分からないこだわりが生じ、結果出会いの機会も狭めていると言う大いなる弊害が生じている訳であるが、仕方ない。

何故なら、少なくとも今の自分にとっては音楽と言うのが非常に大きな感情の拠り所となっているのだから。

とはいえ、自分の好む音楽をすべて好きで、なおかつ同じ感覚を覚える、と言うのことを求めると言うことは、すなわち誰ともわかりあう気はないと宣言しているようなものである。

いくら何でもそんな馬鹿げたことはいわない。

ある一つの、自分が人付き合いにおいて特に大事にしたい部分についてのみ、そうした共通性があればいいな、と思うのである。


それは何かと尋ねれば、やはり安心感というか、安らぎのような感情だよね。

別に相手に何かしてくれとか、こうあってくれ、見たいなことは、もちろん内面での理想はあるにせよ、実際はそのすべてを求めはしない。

でも、自分にとって重要なことについては、同じような感性を求めたいんですよね。

ではそれをいかにして測るか、という指標の一つとして、音楽を介するというのはどうだろうか、と思うのである。

私などは、既に記事にも書いているけど、Feistというアーティストの曲などは聴いていると本当に安らぎを感じるんですね。

もちろん彼女の声と言うのは非常に普遍性があると思うんだけど、だからこそせめてこのアルバムをちゃんと理解できる人、と言うのを求めちゃうよね。

ただいい、ではなく、なぜ良いのか、そこが重要な訳ですよ。


イや~めんどくさい奴だ、と我ながら思います。

しかも、実際それがうまく行くかどうかはまだ検証したことないんですよね。

あまり周囲に音楽を熱心に聞いている子がいないんですよ。

いないこともないけど、あまりに基本的な趣味が違いすぎて。

でもま、今度試験的に試してみようと思いますよ。

ただし、感想を求めすぎるとうっと惜しがられるのは目に見えていますので、気をつけないと。

理屈っぽい男はモテないらしいですから。

...だからか、いや、一人ごとですよ。