こうして私もかれこれこのブログを足掛け5年以上続けていてびっくりしたのだけど、読み返すと内容はともかく文章そのものに自分らしさのようなものを感じる事もあり、それがまた面白い。
自分としては面白いと思うように文章を書いているので、手前味噌だが私は自分のこのブログを読み返すのが好きだし、読んでいてやるやんけ、とか一人で悦に入っていることもある。
たまにコメントを下さる方達も割と好意的な事を書き込んでくれるので、そういった場面で落ち込む事がないのはありがたい事であるし、中には面白いと評してくださる方もあれば重ねてありがたい事である。
私は雑誌関連の仕事をしていて、私自信は営業なので文章を書く事は業務の中ではないのだけど、編集やライターの人たちと話をしていると、彼等も文章には人柄が出るとやはり入っている。
具体的に何が、というポイントの指摘は難しいところもあるのだけど、例えば句読点の付け方や言い回し、文章の順番など、そこかしこに出るものである。
中には「一人っ子っぽい文章」なんて言わしむる人もいて、なるほどなと思う訳である。
実際何が違うのだろうかというと、文章で訴えようとした時にその視点というか、そういうところに違いが出るらしい。
であれば、私の文章というのはどういう印象なのだろうね、なんて興味がわくけど、あくまで私は匿名性を保持しているので、知り合いにこのブログの存在を伝えることはしないし、なのでそれを評価される事もない。
とはいえ、私は私の文章を私っぽいと思いながら書いているからそれなりに地は出ているはずである。
しかし、先日図らずも私は私の文章を評される機会があった。
というよりここ半年くらいでしばしば言われるようになったのだけど、それは何かというと営業部で使っているマニュアルである。
内の社内で見ても、多分一番内容は充実しているはずである。
そこでは説明のための文章も加えるし、編集的な事もやっていた。
更にトークスクリプトなんかは営業で話している内容を落とし込んでいるから、ほぼ口語で書いていることもあり今年入社した中途の人に「なんか~さんと話しているみたいな気持ちになってきます」と言われてしまった。
それが若くて奇麗な女性社員で、頬を赤らめながら言われればなんだか嬉しい気持ちにもなるが、生憎おっさんであったがね。
それはともかく、先日もある勉強会の資料を作成したのだけど、それについても別の、こちらは同じ営業の女の子でまま奇麗な子なのだが、「やっぱり~さんが作ると~さんの言葉になるんですね」
などと、頬は赤らめる事なくしげしげとした様子で言われてしまった。
できるだけこの手の資料ではそうした個性を廃せんとしているのだけど、やはりにじみ出るものは抑え難いらしい。
ともあれ、視点を変えればそうして文章ですら私らしいと言われるくらいに私と言う存在が浸透しているともいえるから、それはそれで嬉しい事だ。
また文章だって文学として芸術の一つとなっている以上、そこに己を表出させられるのなら大したものではないか。
さすがに5年以上もこんなブログをせっせとかいていないよ、という話である。
でも、最近はボキャブラリー含め引き出しが固定化してきた感もあるため、また色々な視点を描けるようにインプットもしないと行けない。
それに、そもそもの環境も変えて行きたいな、なんて思いもあるから、ちょうどそんなタイミングなのかもしれないね。