音楽放談 pt.2

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小休止83「レイヤー」

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今日は少しスピンオフ的な内容で、あまり音楽には関係のない話。

トピックとしてはある曲の歌詞を引用しつつ、と思うのですがね。

何かと言えば、アナログフィッシュの”City od Symphony”という曲。

『Newclear』というアルバムに収録されており、やけのはらとの共作で、歌詞も下岡さん、佐々木さんも両方が書いている曲で、アルバムラストを飾る曲である。

このアルバムを総括するように、街の構造をレイヤーというものを介して歌って行くのだけど、この曲の中で歌われる人間関係の在り方は私の人間観を非常に近いものを感じるのである。

以前にこのアルバムについて書いた際にも軽く触れているのだけど、最近ますますそういう価値観が自分に中で大きくなっているな、と感じるので、改めて書いてみようと思ったのですね。


”明日の約束って本当に簡単なの?”とか”恋人の事も本当にはわからない、友達の事も本当にはわからない、同じ世界に住む誰の事もわからない、もつれ合い、溢れ出す憎しみと愛、”という箇所があるけど、本当にその通りだなと共感しかしない。

私は生来のひねくれ者なので、人の言葉に感動する事ってあんまりない。

だけど、この歌詞についてはなんかすごくしみじみときいてしまうのである。


世の中でよしとされる価値観の一つが、「人は必ずわかりあえる!」というものである。

確かに日常生活の中で、ふと他人とつながったように感じる瞬間や、同じような感情を抱いた感動に震える瞬間もある。

そんな場面を切り取って、一つになった、なんて言う訳であって、本当にそうやってわかり合えればきっと世界は平和なんじゃないか、なんていう綺麗事も生まれる訳だ。

だけど、どんなに頑張ってみも他人の心はわからない。

他人にも心があるかどうかもわからない。

もっと言えば、自分にだってそんなものがあると誰が言えるのだろうか。

私は残念ながらそれを手放しに信用できるようなメンタリティは持っていない。

そういうと、人は決まって冷たい奴だと言い放つ。

どうしてそんな事を思うのかが私はいつも不思議だった。

逆に人の事がわかるというそいつに俺の事は全くわかってもらえないし、こいつだって自分で子卯だと言いな、と思う価値観に人が当てはまれば嬉しいだけで、そうでない人間を排除しているだけに過ぎないくせに、自分のそういう側面には目も向けない。

そういう奴をさして偽善者というんじゃないかと思うがね。


私はこれまでの人生で言われたもっとも多くの言葉は「よくわからない奴」「変わり者」というものだった。

趣味趣向が変わっているとか、人と笑いのツボが違うとか、色んな要因はあると思うけど、本気で理解しようとしてくれた奴は少ないし、そもそも人にはそんなに興味がないんだと言うという事を思い知らされるばかりだった。

だから、私は人に対して、「よくわかる」という言葉や「お前の事はわかっているよ」なんて仕事以外でいったことはない。

何故ならわからないから。

こうじゃないかな、と思いを馳せる事は出来るけど、それがどこまで本当かわからない。

仮に言葉で共有しても、その言葉の解釈自体が共有されたものなのかもわからないから、やっぱり本当にはわからないし、わかり様もない。

それを無理に「わかり合えるはず!!』なんて思うから却って争いが生まれるんだと私は思っている。


で、件の曲では様々なレイヤーの重なりで街や人の暮らしが織りなされる、という表現がなされる。

これもまた秀逸だなと思ったのである。

画像で載せたのはレイヤーのイメージ図。

イラレとか使う人ならイメージしやすいと思うけど、レイヤーはあくまで重ねるだけで、それぞれが干渉することはさせない。

あくまでそれぞれのレイヤーには異なる情報があって、それを重ねる事で初めてあたかも1枚の絵のようになるのである。

結局世の中の構造ってそういう風になっていて、個人、集団、場所、その他の生き物とかのそれぞれのレイヤーがあって、互いに交わる事はない。

だけど、時に奇麗な重なりを魅せるレイヤーがあって、そんな相手がきっと友達や恋人や、家族になって行くんじゃないかな、と思うのである。

でも、どこまで言っても違うレイヤーだから、無理にくっつけようとするとうまく結合せずに情報は散り散りになって、結果うまく行かなくなる。

それを誰かのせいにしようとするから問題が起こって、平和はなされない。

重要な事は違うレイヤーである事をキチンと理解して、その上でどう重なったら奇麗になるのかをお互いに考えてみることなんじゃないかな、と思うのである。


私は昔から人間関係に悩んできたし、今でも正直自分がうまく立ち回れているとも思えない。

それでも、何故か心地いい人、いい奴だとわかるけど何故かダメな人など色々いたけど、自分が苦手だと感じる人間とそうでない人間の違いって何かな、と考えた時に上記のような考えが浮かんだ訳である。

最近も色んな人を改めて眺めてみると、自分の他人への接し方や他人からの接し方で、そういうのってあるのかなって。

私は昔から「波長が合う」という表現を好んで使っていた。

あまり深い意味はなかったけど、なんだか自分の中でしっくり来たのであろう。

改めてその言葉の意味を考えると、そんなレイヤーという例えが非常にしっくり来た。

人は人、自分は自分という線引きがなぜ大事かといえば、そういう視点に立ち返ることが出来るかどうかである。


なんてなことを、考える事が最近多いな。

アナログフィッシュ”City Of Synmphony”