音楽放談 pt.2

SEO強化をしていこう。

小休止88「無意味の意味」

何度かこのブログでも取り上げているけど、所謂ヒット曲には歌詞に意味のない曲が実に多い。

尤も作っている本人達はそれなりに何かを考えて作っているのだとは思うけど、何がしかの意味を拾おうと思うと「?」なものが大半な気がする。

でも、考えてみればそれも当然で、オリコンチャートに登るのはほとんどがラブソングで、その大半は「あなたが好きです」「愛が止まないぜ」「さびひいい」「震える」と言った類いのものなのだから、それ以上は何もなくて、そこにあるのは感情であるからそこから何か言葉を拾おうと思う事自体がナンセンスなのかもしれない。

昔流行ったウルフルズの”ガッツだぜ”という歌も、実に中身のない勢いだけの曲だったしね。

歌詞に関して言えば、その物語性を楽しむものもあればメッセージ性を楽しむものもあるから、どれが身があってどれに意味がないか、なんて言う事は一概には言えないけどね。

それに、私がこの歌詞は実に色々考えさせられるような素晴らしい歌詞だ!と思ってみても、そこから何も感じない人に取っては何か小難しい事を言っているという以上の意味はないのかもしれない。

そう考えると、やっぱり世界はあくまで1人称でしかないし、そこに対して他人があれこれと説く事はそれこそナンセンスなのかもしれない。

だから反面共通項を持つと感じられる人には親近感なんかを持ちやすいのだろうね。

歌詞に限らず、およそ芸術と言うものに付いては説明を要すること自体が野暮という側面があるように思う。

もちろん批評やその分野に置ける新しさや素晴らしさを専門性という言葉の下で解説することはできるし、それはそれで有用なことではあるのだけど、それこそ「このワインが高級なんですよ」と言われなければただの渋い呑みにくいだけのものにだってなる訳で、詰まる所高いかどうかよりもうまいかどうかが重要な訳で、そこに対してあれこれ言い立てる事はやっぱり意味がないようにも思われる。


一方で、そうした解説や批評は新しい視点をもたらしてくれる場合もあって、そこを入り口にその世界へ飛込むこともあるからやっぱり大事なものだとも言える。

そこに重要性を見出せるのであれば、必然的に「語れる」という価値は非常に重要になってくるし、そうなってくると語れるような意味のないものは実は無価値なものでもあると言えるわけだ。

文化という側面から考えると、優れた文化という基準は明確には存在しないものの、少なくとも誰にとっても意味のないものは残りえないから、その価値は詰まる所歴史のみが知っているのかもしれないけどね。


さて、そんな文脈で何が言いたいかということなんだけど、昨日大学時代の友人と久しぶりに会って、カラオケなんかに行ったのだけど、そこで私の歌う曲と彼の歌う曲、また彼の好んで聴いてる音楽と私の好んで聴いている音楽の質的な違いと言うのが実に鮮明で面白いなと思ったという、実に個人的な話なんですがね。

割と好むジャンルは似通ったところもあって、それがきっかけで仲良くなったところがあるのだけど、最近新しく聴くようになる音楽や、足しげくライブに通うバンドの種類なんかが変わってきたなと感じたのですね。

私はこのブログでも紹介しているような、例えばアナログフィッシュみたいな歌詞が批評性に富んだものであったり、洋楽であればそれこそBlack Diceとかみたいなアヴァンギャルドな音楽を非常に好む。

必ずしもメロディがある必要もないし、それよりもフィーリングが大事、みたいなところもある。

一方の彼はといえば、まず根本的にポップでないものは受け付けない、メロディがすごく好き、キャッチーさに心引かれるという、言ってみれば割とわかりやすいものを好む傾向がある。

純粋に耳心地だけであればそんな衝突はないけど、言葉の意味を求める瞬間に齟齬が生まれることはある。

ちなみに友人とはお互いいい大人なのでそんな事で揉めもしませんけどね。


で、私も30になるいい大人なのでいつまでもハードコアパンクみたいな精神でいる訳でもないので、ラジを聴いたりテレビの音楽番組を観たりして、最近の流行音楽をチェックしては理解を深めようとしているのだけど、気がついたのはそれらを聴けば聴くほどなんだかうんざりしている自分がいる事である。

クソみたいな音楽っぽいのばっかじゃないか!なんでこんなクソみたいな意味も何もない言葉の羅列で感動したとか言ってるバカがいるんだよ?とか思ってしまうところがあって、年々酷くなって行く気がする。

以前は友人から借りた音源なんかも普通に聴いていたけど、最近は受け付けなくなってしまったものも多い。

その俺を観てか、友人も「多分ダメなタイプだと思う」といいながら貸してくれるようなところがあって、ちょっと申し訳ないのだけどね。

昔は年を取ると丸くなるとばかり思っていたけど、むしろ悪化の一途である。

困ったものだ。


ともあれ、やっぱり音楽に限らず、映画でも本でも他人にであっても、何を求めるかは人それぞれで、例え上辺だけでも和気あいあいとした関係性を求める人もあれば、衝突的な在り方を敢えて求める人もあるかもしれない。

私も別に人と喧嘩したい訳ではないし、どちらかと言えば楽しくしていたいよね。

それは多分みんな同じで、結局はその人なりの世界平和を求めているはずである。

しかし、そう考えるとそれぞれの正義があるからやっぱり理想的な意味での世界平和は実現されないのかもしれない。

その時に重要なのは自分に取っての意味が他人に取っての無意味であると言う事を前提として受け入れないと行けないし、その事で一々怒ってもいけないよね。

でも、そういう態度は一歩間違うと他人への無関心になるし、人は人、自分は自分という価値観は人を分断させるから、適度な妥協点というのは必要かもしれない。

その妥協点としてちょうどいいのは、やっぱりそういう味の薄いなんとなく楽しい雰囲気だけを持ったものなのかもしれない。


それこそヤマアラシのジレンマという言葉があるけど、こういう個人の価値観が過剰に尊重されるような世の中というのは、反面人との距離の取り方が難しい時代なのかな、なんて思ってしまうけど、そんなことをいちいち考えるから余計に難しくなるだけなのだろうけどね。

ともあれ、寛容な精神を身につけたいものだ。