音楽放談 pt.2

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小休止116「続・社会性の必要性」

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先日あるニュースでロックファンがにわかにざわついた。

何かと言うと、今年のフジロック学生運動で話題になったSealdsが出ることになったことに対して、音楽に政治を持ち込むな、という批判が出たことに対して、アジカンのゴッチが反論、その他のアーティストも何人かコメントをしていたのである。

Yahooのトップにも出たので色々なコメントが並んだわけだけど、本当の意味でロックを好んで聴いている人からしたら、その批判自体が非常に間抜けというか、一体何を言っているのかという話でしかない感じであった。

それに以前からフジロックでは原発問題に関してだったり、日本のレジェンド・清志郎だって社会性のある音楽をやっていた。

ちなみに批判的な人間の意見としては、せっかく音楽を聴いて楽しんでいるところに他人の政治信条を突きつけられることが不快だ、という趣旨であったように思う。

その人たちの言っていることもわからないではないけど、音楽というもの、その中でもロックという音楽が本来持つ態度について考えを巡らせて欲しいと思うよね。

言っておくが、それを受け入れられない奴がロックを聴くな、なんていうことが言いたいわけでもないし、そういう考えの奴がフェスに行くな、なんていうことが言いたいわけでもない。

音楽に限らず、すべからく芸術には社会に対する何かしらの反骨心とか変革をもたらそうという精神から発展してきているのである。

絵画にしても、昔からそうした社会性があるからこそ作品に力強さも生まれるのであろう。

もちろんそうした思想性みたいなものから完全に距離を取ったものだっていくらでもあるし、それはそれで発展してきているから、別にどっちが正しいという話ではない。

あくまで重要なのは、そういう側面があるという話である。


ところで、この問題の中でちょっとややこしいというか、たまに論点がすれ違っているのかなと感じたのが、批判の対象が社会性なのか政治性なのか、という問題である。

批判した当初はどちらかといえば後者の文脈だったけど、途中しばしば前者の論旨が展開されていたことである。

かくいう私も前段のところでは明確に分けて書いていない。

理由は簡単で、社会性を持つということは少なからず政治性を帯びると思うし、もしそうでないなら見た目社会的でもそれは個人の問題でしかないと思うから。

表現の直接間接の違いはあっても、社会性について何かを歌うときにはその時々の政治とは切ってもきれないだろう。

だって、社会を作り上げる作業が政治の役割だと思うし、個人を超えた問題がどこにあるかといえばそれは政治の問題になるだろう。

その意味で、両者を分けて議論することは殊表現について考えるのであればナンセンスだと個人的には思うからである。


日本では社会的な内容の音楽はあまり、というかほとんど受けない。

理由は簡単で、多くの人にとっての問題は個人のレベルに収まる範囲でしか認識できておらず、政治的な事柄は結構遠くにあると思っているからだろう。

私も正直20代半ばを過ぎてようやく政治というものについて多少なりとも考えるようになったし、選挙に行ったのも30手前で初めて行ったから。

理由は、政治っていうものが一体何なのかがよくわかっていなかったし、自分にとっては関係ないとすら思っていた上、自分自身の問題にとらわれていたからである。

それでも社会は回っていたし、テレビで見る政治家は小汚ない成金親父にしか見えなかった。

自分の問題が何となく解決したような感じがしたときに、ふとその周辺にあるものを見たり考えたりすると、そこには政治的な問題というものが何となく見えてきた気がしたのだ。

一応言っておくけど、社会とかそういうもののせいにして自分を棚に上げたとか、そういう話ではない。


音楽についても、昔からパンクは好きだったし、反抗的な歌詞をかっこいいと思って聴いてたけど、昔はその歌われている対象についてまでは理解していなかったように思う。

でも、そういった歌の中で歌われる社会って何?ていう事を改めて考えると、その先には政治があるのである。

青春パンクと呼ばれる一群だって、そこで歌われている環境というのは政治が作り上げたものであろう。


しかし、先にも書いたけど日本ではそうした社会的な音楽はあまり受け入れらないし、場合によっては批判されることもある。

うるせぇ、と言われるのだ。

その端的な状況が今夏のフジロック批判だろう。

ましてそうしたロックフェスと銘打たれるイベントに行く人でさえ、別にロックが聴きたいわけではないのである。

彼らにしてみれば、その瞬間の自分の娯楽が一番で、本質などどうでもいいというところだろう。

それはそれで別に否定はしないけど、そうした人が多いのもやっぱり政治のあり方の問題なんだと思う。

この間経費の使用問題をめぐって辞任した舛添さんにしても、一連の報道の中でフォーカスしたのは何を買ったとか、買ったものをどうしたとか、芸能人のゴシップと変わらないレベルの話以上の議論はどこにもなくて、クソどうでもいいkとばかり真面目な顔してああだこうだと批判している人たちは、間抜けにしか映らない。

でも、そういう視点でしか捉えられない状態を作っているのはやっぱり政治の問題でもあるし、反面そこから先を見ようとしない個人の問題もある。

いずれにせよ、文句を言うなら自分の問題も自分でちゃんと片付けないといけないし、政治に対しても自分なりに何かをやる事が重要なのである。

具体的に何かって言えば、選挙に行くか、政治家になるかのどっちかである。

それをしないで文句ばっかり言う奴は、単に幼稚なだけだと思う。

本来であれば音楽とかそういうものを通して気がつける環境があればいいのだし、海外では音楽がそうした機能を今も有している。

では日本ではなぜこれほど受け入れらないし、あまつさえ批判をするのかといえば、それだけ政治がうまくやっていたからだろう。

だから、国民の関心は政策よりも政治家の人間性ばかりにフォーカスしているんだと思う。

いい加減そうして暮らせる国でもなくなってきているのかもしれないね。

幸いなのは戦争とかそういう問題ではなくて、高齢化とかそういうところだという点かもしれない。

とはいえ、それもじわじわと真綿で首を絞めるような状況である事は確かだろう。


と、政治に全く詳しくない私が思う事だけ勝手に書いてるだけなので、多分幼稚なところもあるのかもしれないけど、それでも考えないよりはマシだと思っている。

私は音楽を通してそういう事も考えるようになったし、だからこそそういう側面のない純粋な(というと語弊があるけど)音楽をいいと思える事の良さもわかるように思う。

最終的に何を選ぶかは個人の自由だけど、少なくとも自分の中に判断基準を持って自分で選んでいけないようでは、やっぱりダメだと思う。

独りよがりはダメだけど、色々なものを踏まえて判断した結果であれば、独りよがりの判断結果にはならないと思うしね。


なんだかまとまりのない感じになってしまったので、最後は日本がまだまだ激しかった時代の一端を表すものを。

今も現役でいる日本の元祖パンクとの呼び声も高い頭脳警察を少々。

何といって”銃を取れ”という曲こそ分かりやすい社会的な音楽である。

一歩間違えば右翼のテーマソングと思われてしまうかもしれないが、一つのメタファーと捉えれば解釈の仕方もかわるだろう。

ちなみに歌っている当人は至ってノンポリ、というのも有名な話である。

それだからこそ、別に右翼的な発想からその歌を歌っているわけではないのはわかるだろう。

表現と表現者は、しばしば切り離されるのである。

それでも当時学生運動で引っ張りだこであったわけだから、形が重要なのもその通りでもある。

分かりやすいものほど受け入れやすいが、そこで一歩引いて物事を眺めてみるだけで、いろいろ変わると思うんだけどね。


と、いうわけで東京都民はちゃんと選挙に行きましょう。

”銃を取れ” by 頭脳警察