
資生堂のCMがセクハラだとか女性蔑視みたいな視聴者のクレームを受けて放映中止になったらしい。
ニュースのコメントには賛否様々な意見が一応飛び交っているけど、なんていうか、ケチのつけ方を覚えた中学生が胸を張って正論っぽいことを述べているようでなんとなく気恥ずかしい気持ちになった。
それはともかく、資生堂の意図としては社会の中で頑張る女性を応援したい、というものであったとか。
それをやや風刺的なタッチで描いたことで批判の対象にもなったらしい。
CMについてはYoutubeにも出てこなかったので見られなかったのだけど、そのストーリーを見るに意図はわかる。
それに、特段問題とも思わない。
「今時その価値観?」といった意見が女性からも寄せられたという話なのだけど、実際どうなのだろうね。
もちろん会社によってはまさに女性社会なところもあるのだろうけど、大概の世界は男性社会なのではないだろうか。
それこそ書店で売られる女性が社会で活躍するためには、というようなものの大半は、男性的な価値観、思考に合わせるためのHow Toでしかないように感じた。
ちなみに私はもちろん男なのだけど、以前職場の子がしきりに「男尊女卑」「男性社会」などと言っていたのを偶に思い出す。
正直その子がどういう状況を指して言っているのかが初めはわからなかったのだけど、ある時ふとそういうことなのかなと思うことがあった。
それは男女の会話の流れとか、仕事でいえば報告の仕方とか、そういうのを見たり聞いたりしていて思ったのだけど、いわゆる合理的と言われる報告方法は確かに合理的なのかもしれないけど、それが合理的だと判断するのは男性的な価値観で、女性からすればそういう仕方は必ずしも合理的ではないのかもしれない、と思うことがあったのだ。
もっとも女性ではなく、あくまで彼女にとっては、という可能性もあるわけだけど。
それに、もちろんそれは何を軸に考えるかにもよるところがあるけど、仕事のパフォーマンスという視点でいえば、結論から言え、という仕方は合理的ではないのかもしれない。
また、このCMでわかりやすく指摘されていたのは「25歳はもう女の子じゃない」という表現だそうな。
一般的には女の子=子供という認識があるらしく、そんなの当たり前じゃんという人や、大人の女性に対して女の子というのは子供扱いしていて失礼だ、といったいまいちよく分からない指摘が多くあった。
当の女の子たちは本当にそう思うのだろうか。
というのも、私は普通に女の人のことを日常会話で女の子と表現するが、別に見下しているわけでもないし子供扱いもしていない。
だいたい子供あつかいという言葉そのものが子供を尊重していない表現で、そもそもそういう認識を持っていう人は人を見下したり区分けしてみている証ではないかと思う。
子供の方が自分が見下されていると思うと敏感に感じ取るものである。
話ずれちゃうから一旦閑話休題にするけど、別に女の子でも女性でもいいじゃないかと個人的には思っている。
それに批判されている対象とか、その批判の内容を見るとどこかコンプレックス、というとちょっと違うけど、ことさらそういうことを意識している人なんじゃないかという気がする。
同じ女性で批判したという人は、日々自分自身にそういうことを言い聞かせているから却って敏感になっているのではないだろうか。
社会に出れば周りに合わせることをしなければいけないし、それが大人になるということでもある。
一方でじゃあ子供っていう価値観ってなんだろうということを考えると、自分に正直であることなんだと思う。
どっちも必要だと思うし、優劣のあるものではないと思うのだけど、大人的な価値観をこそよしとするところが社会にあるように思う。
重要なのはバランス感覚だとしても、いずれも否定されるようなものではなくて、便宜上大人、子供という言葉を用いるだけなんだけど、きっとその表面的な意味しか拾われないだろうなとは思っている。
ともあれ、女の子にとっては必ずしも生きやすいばかりでもないのかもしれないけど、今ある現実は現実として、その中で生きていく術を身につけなくてはいけないのは仕方ない話である。
最近女子、という言い方をする人が増えているけど、それって自分たちの女の子性をもっと受け入れて!という思いの裏返しのようにも感じる。
それが必ずしも子供っぽさなのかはわからないけど。
なんやかんや若い女の子の方がおっさんらからすれば見る目は優しくなるし、女性にもとめられるものも美しさや華やかさみたいなものであるのは事実である。
でも、裏を返せばそれも武器に能力を発揮してやればいんだから、むやみにぶつかったり楯突いたりするよりは、どう利用するかを考える人の方が賢いと思う。
件のCMについても、笑ってやり過ごせるくらいの強かさがあるくらいがいいのではないかと思うけどね。
なんて色々御託を並べたけど、個人的にはいくつになっても女の子っぽい可愛らしさって誰にでもあると思うから、いくつになっても女の子って呼ばれててもいいんじゃないの?と思っていて、そこにフォーカスを当てた批判がなんかひっかかったのだよね。
最後に対峙するのは個人でしかなくて、それが若くてもそうでなくても、芯が一本通ってやることやってればそんなことは雑音でしかない。
そういう人は、なんやかんや言っても素敵ですよ。
どんな時代、社会でも、その中のマジョリティの価値観がやはり常識になって、そこにそぐわない人は肩身の狭い思いをするものだ。
その価値観が強いて何かを選ばなければいけない時に最後の寄る辺になるくらいのものであれば、日常レベルではそれほど大した問題にはならないだろうけど、実際には日常レベルで、それこそ飯を食うことですら浸透してくると、そこから外れたものにはもやは居場所なんてないだろう。
世界が狭ければそれがより強く感じられるだろうし、中にはもうこの世界には居場所がないと思う人も少なくないだろう。
日本はなんやかんや言っても大なり小なり村社会だと思うし、マイノリティを受け入れるよりも叩きつぶすところがある。
露骨じゃないにしても、それは確実にある。
と、ちょっと面倒くさいことを書いたけど、紹介する曲はめっちゃ穏やかで優しくて、とてもいい曲。
「私たちみたいな女の子が頑張れるように」というラインがあるのだけど、田舎町で同性愛は受け入れられるものではないだろう。
日本でなくてもそうなのだろうね。
数少ない同士と生きていく姿を寓話的に描いている。
戦いの音楽では決してないと思うけど、この曲の視点には優しさが満ちているように思うので、疲れのたまった週末にはぜひ聞いて癒されてほしいですね。