音楽放談 pt.2

SEO強化をしていこう。

道徳心の根本とは・・・ -Descipline

イメージ 1

最近11時台のバラエティを録画しておいて休日に見ている。

アメトークとかの時間帯ですね。

過度に派手な会陰しゅつもなく、流行り物に迎合するでもなく、独自のスタンスの番組があって面白いのだ。

そのうちの月曜日には元大阪知事の橋下さんのやっている政治バラエティがあるのだけど、この番組も普段自分があまり見ない政治とかの問題を扱っているから面白くて見ている。

テレビタックル的な感じがするけど、理路整然と話す橋本さんの話はわかりやすいし、政治家経験者がメインなのでより専門的な話もあるからなるほどなと思って見ているのである。

橋下さんの考え方とか価値観とか、あるいは論じ方全てに賛同もできないし、そりゃ違うんじゃないかと思うこともあるけど、言っていることは理解できるから伝える力はこの人は強いと思うよね。


この番組で先週から2週続けて政治ではなく道徳というテーマで展開していた。

トランプ当選や韓国の問題があって、政治家のブッキングができなかったのかしらないが、ある設定を設けてあなたの意見はどっち、という感じのもので、そこに道徳的か否かということを多数決で決める的な感じである。

一応道徳的な善悪という切り方はしないように配慮されているのはわかるが、そもそも道徳的であるということの定義について共通認識が持たれていないし、ただ漠然と個人の意見を言い合うだけの展開が多い。

まして出演者も感情的にものを考えたり、そもそも論点の軸がずれていたりと、一体何を見せたいのかがかなりわかりづらい回になっている。

例えば教育評論家か実際の先生か知らないが、しばしばブログの発言も問題視される某Oママとかね。

もっと言えば、そもそもお題として用意されているVTRの設定自体がかなり限定的だし、AかBかと言われる2択についても道徳的な問題とは違うのではないかと思われる感じで、スタッフもちゃんと考えて作っているのかが疑問である。

いかにもそれっぽくはあるけど、それに道徳的か否かの価値観を乗せた瞬間に何かとよくないハレーションも生じるように思う。

ある価値観を肯定して片方を否定するような見せ方はどうかと思うし、多数決的に多い方を是として少数派をズレていると断じる態度そのものが道徳的ではないのではないか、という気さえする。


と、面倒臭い人な感じであれこれ書いたけど、そもそも道徳ってなんぞや、という問題は非常に難しい。

小学生の頃も道徳という科目があったが、正直一体何の時間なのかさっぱりわからなかった。

当時はNHKで「さわやか3組」という番組があって、それを見る時間くらいの認識しかなかった。

そういえば、確か3年生か4年生の頃だったと思うけど、当時1組だったので、その番組が始まるとやたら元気なグループの女子連中が、タイトルの「3」のところに紙で自作した「1」の文字をわざわざあてがうという遊びをしていたのだが、数名の男子が「邪魔だ!」と怒ってその女子を泣かせていたな。

それはともかく、似たような概念として倫理というのもあると思うけど、道徳の方がより社会的なコンテクストで使われるように思う。

衆道徳などという言葉もあったと思うが、実際辞書的な意味でも社会生活というものが前提になっている言葉であると思われる。

片や倫理はもう少し大きな概念というか、根本的なところに根ざすように思われるが一旦置いておこう。


この道徳という言葉の辞書的な意味を参照しても、先の番組の置ける道徳的な選択を迫る例題はズレているなと感じたのだけど、それはともかく、最近はこの道徳というやつが非常に低下していると言われて久しい。

そもそも善悪という言葉が使われる段階でややこしくなるのがこの種の問題で、善悪は立場が変われば判断基準が変わるものである、と私は思っている。

私が善と思うから善だ、故にお前もその善に従え、という態度は道徳的には善とされないだろう。

主語が個人だから、個人の意見を通すこと自体は道徳的に善とは言えないというのはまあ納得感あるだろう。

道徳という概念自体、論じる時には社会対個人という構図で語るべきものなのだろうね。

そこでは自分を押し通さずに社会的に善とされる価値観に従え、という自己犠牲の精神が善とされているのだろう。

「さわやか3組」が一体どんな番組だったのかもう忘れたが、いずれにせよあの授業ではきっと自己犠牲の精神を植え付けんとしていたに違いない。


その意味では確かに昨今は道徳心が低下していると言われるのも確かにと思う節があるわけだ。

この間電車の中で優先席の席をゆずる、譲らないのやりとりを動画でアップされて、それについてのああだこうだの批判とかがあった。

譲れという爺さんと、その態度が気に入らないと言って譲らない若者のやりとりである。

どっちもどっち、というのが大方の着地のようだが、まあそうだよねと思う。

先の自己犠牲の精神に照らせば、体力の弱い年寄りに席に座らせるべきだというのも一理、一方でそれを当然とする態度は自己中心的でしかないわけでそれでは道徳的に善とは言えない。

だから、この場合道徳的にはどっちも悪だといえるだろう。


でも、この種の問題って本当によく聞くように思う。

みんな基本的には自分の立場でしか物は言わないし、その場合の自分に都合のいい社会的な善という価値観をわざわざ持ってくる。

そのいやらしさをそこかしこに感じて、非常に気持ち悪い気がするものだ。

「俺は正しいんだ!」ということを言いたいし認められたいという思いが強いのだろうか。

価値観の善悪は論じれば論じるほど自分の信念に従った善を善としたいのは人の性だし、だからこそ道徳という価値観が要請されるのだろうけど、自己犠牲ばかりでもなんだか歪な感じもするものな。

結局どうするのがいいことなのかは答えがないのだろうね。


ところで、なんで急にこんな話をしているかということなんだけど、いかに自分の都合を通すかということに腐心する人が多いような気がしていて、それ自体は別にいいのだけど、それが小賢しい手段によっている場合が多いことがすごく気持ち悪いのである。

人の意見や社会的なよさみたいなものをわざわざ持ってこないでも、そういう時は自分中心に主張してくれた方が却って気持ちいいものである。

道徳的か否かとかの問題は、当事者が持ち出すべき問題ではなくて、第3者に委ねる時の一つの指針でしかないと思っている。

もちろん当事者の頭の中に一つの軸としてあるべきものであるとは思うけど、一見客観的な意見でも、当人から出てくる意見は常に主観的でしかない。

構造的にそれは回避できないのだから、そこをさも正義感ぶって、自分が正しいとばかりに主張する人間は信用できない。

かくいう私もこうしてそういうものの言い方をしているわけだから、人のことを言えた義理ではないのだけど、SNSの発達で国民総論客となった現代では、余計にそういう空気が目に見えやすいのかもしれないね。

人間はもともと感情の生き物だから、その瞬間の感情が露骨に出ているのだろうし、とは言え批判されるのも嫌だからその小賢しさが見えてくるように思う。

因果な世の中だ。


そんな現代時には是非この曲を聴いてもらいたいね。

King Crimsonの"Descipline"。

この言葉も「訓練」「規律」といった意味になるのだけど、非常にストイックな概念である。

Robert Flip御大の音楽活動を象徴するような言葉だが、その楽曲も静かながら徐々に練り上げていくような展開が非常に痺れる。

クリムゾンとしてのキャリアの中では異色なアルバムだが、エイドリアン・ブリューのエキセントリックなギターも冴え渡るいいアルバムだ。

いやほんと、自律心も自立心も大事だよね。

気をつけよう。