しかも2時間。
毎週楽しみにしている番組なのだけど、個人的には全く興味がないどころか、ちょっとイラついてしまう企画である。
私の出身校は、私が在学当時から遡っておよそ20年前に甲子園に出たことがある、というのが学校のちょっとした誇りらしいのだけど、それをOB会か何かがいつまでも誇っているらしく、なぜか私たちが2年生くらいの時に、その記念碑がたてたれた。
しかし、当時の野球部は地区予選でも勝てないくらいの弱小、にもかかわらず学校での待遇はうちの部よりも良かった。
グラウンドの占有率とか、優先順位みたいなものもなんとなくあって、それが私は気に食わなかった。
私は陸上部だったのだけど、誇れるほどの実績はないにしても部員全員県大会には進んでいたし、1人は地方大会まで進んでいた。
少ない人数ながらにしっかり実績は出していたし、少なくとも野球部よりはそうだった。
そんな思いがあったから、当時私はそれがなんだか悔しくて。
しかも私の出身校は割とその地域では結構古くからあるため、伝統だとかそんなものをしばしば振りかざす学校で、校長の挨拶でもそんな言葉がしばしば飛び交っていた。
当時はまだルーズソックスとかがギリギリ流行っていた時代なんだけど、そういう子を指しても伝統ある我が校で~みたいのとか、近所のOBが嘆いて~とか、とんなことばっかり言っているの聞いてはバカじゃないかと思っていた。
じじいばばあの時代と比べられても知るかという話である。
その頃から、やたら過去を誇る年寄りとか上の世代が嫌いになったな。
一方で、同じ高校生の部活動なのに、野球ばかりが青春だ感動だ努力の結晶だなどとテレビでも取り上げられるのも気に入らなかった。
俺らだって必死にやっているし、俺らだけじゃなくて他の部の連中だって同じように頑張っている。
なのになんで野球だけ特別みたいな見られ方をしているのかが不思議で仕方なかった。
陸上部員でよく言われるのは、陸上は個人技だから、団体競技の方が感動できるとか、みんなで力を合わせてやっている感じがとか、そんなことを言う奴もいる。
だけど、多分そういう奴は真面目に部活とか、本当の意味での団体競技的なものをやっていないやつだと思う。
陸上だって、練習する時はみんなで一緒に走って、お互いに声を掛け合いながら練習している。
競技自体は個人技ではあるけど、その分チームメイトが走っている時なんかは声出して応援している。
同じフィールドに立っていなくても、一緒に練習しているからそいつのことはよく知っているし、だからこそこっちだって一生懸命応援するのである。
それって一つのチームワークだと個人的には思っているし、社会人になってからそういうあり方の方が実ははるかに多いということも結構感じている。
まあ、高校生当時はたんにどれだけ努力しても実績出しても、結局そんなことは問題じゃねんだな、て言うことをうくづく感じさせられたような気がしていて、それが今に至る自分のメンタリティの根本にもあることを感じるのである。
特にこの時期のこういう話題を見るとね。
どうも日本人の多くは野球が好きだという思い込みがあるようで、実際好きな人も多いと思うけど、一方で興味ない人も同じくらいいると思うし、感動だなんだと騒いでいる連中は、結局のところ自分の人生が暇なだけじゃないかとしか思えない。
実際にやっていて、当時の気持ちが~とかなら別だけど、やってもない奴が気持ちわかるわけないだろって。
ただ、最近思うのは先にも書いたように、社会に出て仕事の場面だと、あの単位で同じことをやってみたいなことは少なくなるし、どちらかといえば個人技的な積み重ねの方が多くなる。
もちろん全くチームプレイ的なものがないわけではないし、大きな目で見れば単なる役割分担があるだけではあるのだけど、その規模の会社で働く人の方が少ないだろうし、だから憧れも込めて見ているんだろうな、とは思うよね。
なんとなく愚痴っぽい内容になっているんだけど、最近またちょくちょく昔のいろんな場面を断片的に思い出すことがあって、そんな中の一つがあのえも言われぬモヤモヤ感で、今思えば認められたいと言う承認欲求の一つだったのかな、なんて思うのだ。
ちなみに私は昔から真面目でぐれることもなく、通知表も学力もそこそこいい成績で通ってきたし、先生方の評価もなぜか良かった。
もっとも、1番になったことはなかったから、上がいるのに喜んだってしょうがねぇだろ、とか思っていたんだよね、生意気に。
だからだか、それなりに認めてもらえてきた人生だったと今なら思うけど、当時は全くそんなことを思えなかった。
ていうか、今でもリアルタイムにはそう思えていないところがあって、なんだかいつもイラついている気がする。
それを表に出すようなことはしないけど、だから人と一緒にいると自分を抑えるから疲れるのである。
今年32になって、いろいろ考えるところとかもあるんだけど、根本亭な性格傾向ってやっぱり変わらないんだな、なんて思うわけである。
学習するから、まずことには首を突っ込まなくなるし、面倒を回避する術は身につけるけど、自分が変わったわけじゃないから腹の中ではいつもふつふつとしているわけである。
成長してないな、なんて思ってしまう。
人付き合いもそうで、会社の人と休日まで一緒にいたいと思えないし、だからイベントとか企画されると正直鬱陶しいと感じてしまうし、それに嬉々としたリアクションを示せる人に胡散臭さを覚えてしまう自分がいて、それは自分の嫌な部分だなとつくづく思うのである。
目の前にある現実だけを受け止めることが必ずしも正しいとは限らないし、そればかりでは損をすることもあるわけだけど、一方でそれが素直にできないことはやっぱり息苦しくもある。
いつからこんなにひねくれてしまったのか、もう定かではないけど、もう少しバカみたいな素直さがあってもいいよね、人間てのはさ。
そんな時にいつも頭に流れてくる曲が、頭脳警察の"それでも私は"という曲で、彼らの2ndアルバムに収録されている。
私はこのアルバムは高校2年生の時、千葉県で行われた駅伝大会の付き添いできた時に、千葉駅のパルコにあったタワーレコードで買ったのである。
確かその時にKing Crimsonの『Red』も一緒に買ったように思う。
まっすぐ行こうと思っても誰も評価なんてしないし、自分が他に埋もれるだけだ、とか思っていたので、少しずつ道を踏み外し始めていた頃である。
ただ、当時この曲を聴いて、なんだか妙に慰められたというか、勇気付けられたというか、そんな気持ちにさせられたものだ。
今思い返せばちゃんと評価もされていたし、認められていたし、別に何も不自由なんてなかったはずなのに、ただそれをそのまま受け入れられなかったというだけなんだけどね。
やっぱり明るい青春時代を過ごすって、大事だよね。