音楽放談 pt.2

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Humanity ―The Mad Capsule Markets

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何を基準に音楽を聴くか。

それはきわめて重要である。

特に自分のような、端から見れば音楽ジャンキーみたいな奴(少なくとも会社ではそう思われている節がある)にとっては。

もちろんメロディや、耳触りなんかは一番表立っている分気になるところだし、こういうムードの曲は好きだわ、というのはいくらでもある。

歌詞さえなければ完璧なのに、というのもあるから、割とこだわる人にとってはいくらでも切り口があるはずである。


そんな切り口の一つは、アーティスト自身の持つ哲学や、あるいは社会などに対する態度というものがある。

殊パンクと呼ばれる音楽においてはそれなくんば単なるファッションである。

精神性あって初めて反骨精神と呼べるのは、まあ当たり前だよね。

今の世の中はそれもないのに、いわゆるイメージだけでパンクを名乗るクソが多すぎるんだけど。

でも、そんなクソッタレどもを一掃せんばかりの破壊力を持ったバンドが、かつて日本にはいたのである。

それこそまさに、Mad Capsule Marketsである。


90年代、時はバンドブームに沸き立つ時期に同じくして登場した彼らは、当時の世相に唾吐きかけるような攻撃性でもってシーンに殴り込みをかけた。

アングラシーンでは、その音楽性の高さと痛烈で超攻撃的な歌詞で話題に上っていたようだが、シーンに強烈なカウンターを浴びせるように。

メジャー1stはサウンドはもとより、歌詞もヴィジュアルもジャケットも、非常に刺々しいもので、今の音楽界にはあまりいないほど、わかりやすいほどにハードコアパンクであった。

それよりも先んじてインディで出されていたアルバムが、「Humanity」という奴(先んじてるよね?)。


歌詞は非常に青臭い感じの残るもので、若いなあ、なんて思ってしまうけど、微笑ましいようなレベルではない。

あまりにも強烈な言葉で持って彼らは大きな敵に攻撃を仕掛ける。

なんせ1曲目のタイトルがいきなり"3秒間の自殺”である。

もっとも再発盤にでは「自殺」の部分は「・・・」になっているけど。

続く”あやつり人形””Life Game”"ギラギラ"なんて、馬鹿正直なほどの直線的な歌詞である。

モチーフ自体の新鮮さみたいなものは正直ないんだけど、それゆえ彼らの若さが一番出ている曲かもしれない。


で、個人的にこのアルバムで随一のお気に入り曲は、メジャーデビュー時には既にバンドを抜けていたが、今は剛士とともにやっている室姫(現:児島)作曲の”賛美歌”。

いわゆる上流階級に対する挑発的な内容は、10代にとっては一度くらい経験した事のあるフィーリングじゃなかろうか。

「俺は燃えないゴミ」というフレーズも少し痛々しい。

続くタイトル曲”Humanity”は、マッドの全キャリア通してしばしば顔をのぞかせる彼らのメランコリック(という言葉がベストかは自信ないが)な面が出ている曲で、いろんなジレンマに苛まれるような感覚があり、かなり好きである。

彼らにとっての敵である、社会という名の総体の中での自分のあり方に関しての葛藤とでも言おうか、そういうものが漠然と歌われていて、そういう意味では彼らの原点とでもいえる、かも。


続く"カンヅメの中”では、ある種の抑圧的な力に対してあがこうとするようなイメージか。

カンヅメの中じゃ何もできやしない、カンヅメの中で叫んでみるのさ、というフレーズが印象的である。

そして”どうしようもない人の歌”では、いわゆる他力本願な奴に対する皮肉的な歌詞である。

この歌詞の主人公はすべて人任せ、責任はすべて人のもの、という態度である。

こういう奴って大嫌いなんだけど、いるんだよね、職場にもさ。

マジどうしようもないよ。


次の”Dear歩行者天国の皆様”では、狂っているのは僕の方か、それとも社会かという、こういうフィーリングのわかる人も少なくないだろう。

私なぞ未だに感じる事もある。

ていうかしょっちゅうだけど。

あんまりにもわかりすぎて、初めて聴いたときはちょっと泣きそうになったよ。

どうして良いかわからず、ただ立ち尽くすしかない絶望感、無力感、そういうものをしばしば人の中にいると感じるのである。

絶対間違ってないと思うのに、誰一人賛同してくれない。

でも、実は賛同してくれない事よりも、否定もしてくれない事の方がダメージは大きい。

ま、それは社会というものの構造が否定も肯定もさせない何かを放っているのであろう。

そう思うしかない。


続く”ラ・ラ・ラ(僕が嘘つきになった日)”では、手紙のような語り口で歌われるこの曲では「僕が嘘つきになった日、僕が生まれたその日さ」というフレーズが印象的である。

これもある種の皮肉と、やるせなさからくる自己否定なニュアンスであろう。

諦めという方が本当かもしれないけど。

そしてラスト”だんだん”では、なんかわかってきちゃった、みたいな感じで非常に元気づいている。

あいつらは体のいい事をいているだけだ、そんな奴らに関わっていられるか、とでも言いたげなアップな曲である。

で、最後にちょっとだけ入っている曲が、短いながらにそのアンサー的内容になっている。

なんのかんのいっても、最後は単純な答え「お前が嫌い」にたどり着くのが非常に面白い。


この頃はまだ対象が漠然としているあたりが、マッドの音楽史的にかなり面白いんだけど、媚びは売らねえというスタンスは現在まで変わらずあって、それもまた非常に興味深く、私がずっと好きでいる理由もそこにある。

単純に自分の社会適応力が低いだけなんだけど、でもそれが高いっていうのはどういう事かと考えると、決してそうはなりたくないと思う自分に気づく訳である。

学生時代からずっとそうだったんだけど、私の意見は客観的に正しい場合が多く、一番合理的であったりする。

それは過信でもなんでもなく、その場にいる全員が認める事である。

しかし、だからといってそれが受け入れられるかどうかは別の問題である。

それよりも感情とか、あるいは分けのわからないへりくつの方がまかり通る事の方が多い。

別に感情を否定するつもりはないけど、状況から言ってそこでこだわる理由なんてないのに。


そういう事は一度や二度じゃなかった。

そのせいか、気がつくと一人でいる事の方が多かった。

別に友達がいなかった訳じゃないけど、少なくとも私が友達だと思っていた連中にとっての俺の存在は、一応友達、というのが実際だったと思う。

正直、今も連絡を取る高校時代以前の友人は、皆無になっちゃったな。

まあそれは良いや。


マッドの歌詞には、そういうときの自分のフィーリングにすごくマッチしたんだよね。

あるいは常日頃抱いていた不満とか、周りの連中に対する苛立とか、もっと大きく社会の中の望ましさみたいな価値観とか、すべてがむかついて仕方なかったときにすごく響いたのですね。

良い大人になったいまでも、その辺の感覚はあんまり変わらない。

これが俺の本質なんだからね。

ま、単に頭が悪いだけなんだけど。

そういう意味でも、私に取ってはこのバンドの存在はきわめて重要である。

そのアチチュードという部分において特にね。


という訳で、わざわざ書庫も作ってみました。

NIN同様、今後別枠で個人的な思い入れをより以上に盛り込みつつ、気持ちの悪い文章を展開していきますよ。