音楽放談 pt.2

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小休止77「社会性の必要性」

私は仕事柄出張が多いのですが、移動時には電車、車、飛行機、時には船と、陸海空すべてを超えていく。

まあ、それだけ辺境の地にまで足を運ばされているということなのですが、その際には耳元には音楽を常に流している。

何せ移動中は歩く以外にやることはないからね。

車の場合であればわざわざコネクタを持って行って、車のステレオから音を流しては悦に入っている訳であるが、時に人と同行の場合がある。

その場合でも基本的には私が音楽狂いということはレベル感に幾ばくかの相違はあるにせよ概ね共有されているため、己を通すことができるのだが、時には相手に合わせることもある。

そういう時に人がどういう音楽を聴いているのかを聴くことも興味深く、また世の中でのはやり音楽がどのようなものかを聞くのもそれはそれで面白いわけである。

自分からはまず聞かないからね。


そうして聴いていて改めて思うのは、歌詞の軽さというべきか、少なくとも自分には全く共感できない世界があり、しかし世の中の大半はそういったものを受け入れているという事実である。

概ね話を聞けば、好きなアーティストの好きな理由は歌詞への共感というのが恐らく一番多い。

しかし、そこに謳われる歌詞というのは少なくとも私にとってはいったい何の意味があるのかさっぱりわからないものが大半である。

もちろん中には非常にいい歌詞を書いている人だっているから、すべてがそうだとは言わないのだけど、思っている以上に何も言っていないのではないか、というものは多いように思う。

たまに友人とカラオケに行った際にもしばしば思うのだが、いったいこの人は何が言いたいのだろう、というものが多いと思うのである。


とはいえ、娯楽としての音楽であれば、それこそ恋愛のあれこれを描いているくらいがイージーリスニングには適しているのであって、そんなところで「原発反対!」などと声高に叫ばれても如何したものか、という話ではあろう。

それに社会的な主張だけが意味があるとは思わないので、それはそれで別にあるべきだとは思うのです。

しかし、それにしても言葉の表現であったりその奥にある含蓄というものが全く感じられない、それこそ「まいう~」みたいなことをひたすら言っているだけの歌や、俗にいうストレートな歌詞は「あなたが好きだぁ!」と言っているだけで、だからどうしたと思わず突っ込んでしまう私は、ひょっとして人間的な情緒の幾許かが欠落しているのであろうか、などといぶかってしまうこともしばしばである。

そういえば、昔ウルフルズの「ガッツだぜ」という曲が流行っていたが、今考えるとあれも何も言っていない。

とにかく頑張ろうぜ!という愚直すぎるくらい愚直な歌詞で、それはそれで今にして思えば面白いのだけど、ある種のわかりやすさというのはそういうものだろうか、なんて考えるわけである。


私自身が言葉を尽くすということが好きなので、どうしてもそうした安直な表現というのは今一解せない所があるのだけど、一方で言葉を尽くすほどにかえって説得力がなくなるということは往々にしてある。

それは日常でも重々体感しているから、その意味でストレートな表現の持つ力というのも否定は全くしていないんですね。

しかし、私が気になるのはアルバム1枚を聴いたとしても、結局のところ同じことをしか言っていない、というものがあまりに多いのである。

それこそシングルで出すのはわかりやすい方がいいから、といって意図的にそうするのは実に戦略的でいいことなのだけど、結局それしかでけんのかい!となると、単なるボキャブラリーの貧困であってもはや歌詞ではなく単なる小学生の作文なのである。

要は書けるけどあえてそういう表現を選んでいるのか、最初からそれ以外に(能力的な問題で)それしか選択肢がないのか、という視点で見たときに、おおむね後者であるとしか思えないのである。

それがJ-POPの大半を見ていて詰まらないと思う一番の理由である。

一方でかえってAKBなんかの方がましじゃないか、と感じる瞬間があるのはあれは積極的に売ることを意識してああいう歌詞にしていることがわかるからである。

秋元康はやっぱりわかっている大人なのだろう。

他にも、何気に私はきゃりーぱみゅぱみゅの”PON PON PON”という曲の歌詞も、一見意味不明な言葉遊びに見えるけど、実は現代的なこの価値観を表現できていて侮れないんじゃないか、と思っている。


さて、そんな私がではどんな歌詞を好むか、という話であるが、一つはストレートな表現と言ってもパンク的な歌詞は好きなんですね。

パンクと言ってもただ「ぶっ殺してやるぅ~」とかいうネガティブかつ対象不明の攻撃性を発露しているだけの子供叫びではなくて、一流のウィットに富んだものである。

それこそスターリンとかINUとか、海外ではDead Kennedyみたいな歌詞は好き。

私自身が皮肉屋なので余計にね。

そして文学性の高い歌詞。

単なる物語とか、抽象的で断片的で観念的な言葉の羅列とも取れるけど、その言葉の裏に隠された真意であるとか、あるいは表面的な意味と本来的な意図の交錯する二重性であったりと、そうした高度に言葉を駆使した歌詞はやはり好きなんですね。

こういう歌詞を書くためには一定上のインテリジェンスは必要なので、バカではできない。

とはいえ、この手の歌詞は結局のところなにが言いたいの?ということがストレートには伝わらないので、表面的な意味においてよほどわかりやすいストーリーを載せられないと、やはり一部の好事化向けにしかならないから、本当に高度な表現と言える。


いずれにせよ、たくさん売ろうと思った瞬間に、誰が見てもわかるわかりやすさは必ず必要だし、まして何かに対して批判的なものは時代性も関わってくるだろうし、一歩間違えば角が立つのでやはり積極的に広い世界で好まれることはない。

批判的でなくとも何かを主張するときに、そこに社会的なコンテクストが含まれると自ずと敵も増える可能性がある。

だから主張するにしても極パーソナルな視点での自己言及的な表現になるのだろうね。

でも、下手な奴がやると単なる自己憐憫や過剰な承認欲求を発露しただけの哀れなものになってしまうわけだが、世の中ではやるラブソングの大半はそんなものだろう。


まあ、どこに結論を持っていきたいという話ではないのだけど、いずれにせよマスプロダクションとしての音楽には首長や社会性は求められず、必要なのはわかりやすさと共感のしやすさ。

長く愛されるかどうか、誰かの胸に深く刺さるかが焦点ではないという話である。

その意味でそれはやはり芸術ではなく単なる無形の消費財でしかなく、音楽などではないのかもしれない。

精神性の問題ね。


でも、そんなつもりもなく誰かに届け!という真摯な思いの発露の果てが結果としてそうなっているとしたら、やはり哀れというよりほかないわけだが。