先日久しぶりに映画を観に行った。
もちろん一人で。
で、何を観たかと言うと一部では話題になっていた『her 世界に一つの彼女』という奴。
今作ではArcade FireとOwen Palletというカナディアンインディの注目株のタッグとあって、どんなもんかしらという興味が大半で観に行ったのであった。
更に『Social Network』『The Girl With The Dragon Tatto』ですっかり有名になったルーニー・マーラーも出ている。
この人は品がある顔立ちで、美人だから好きなんですね。
たまには音楽以外にも書いておこう、というわけである。
以下ネタバレも含みます。
物語の大筋としては、別居中の妻に未練タラタラのセンチメンタルの塊のような中年男が、OSとの恋(!?)を通じて人間らしさを取り戻して行く、という様な話である。
・・・ざっくりまとめるとホントこんな感じだな。
ちなみにテーマは愛の本質について、という所かなと思う。
さて、この中年男は手紙の代筆人という仕事をしていて、ラブレターから家族への感謝の手紙から恨みの手紙までさまざまな内容の手紙を依頼人に変わって作成すると言う不思議な仕事をしている。
彼の書く手紙はいかにも本人が書いたようなリアリティとその内容の説得力から同僚にも大好評。
時には女性の立場で書く事もある訳であるが、そんな彼を同僚は「お前は男と女が半分ずつだ」なんて言ったりする。
そんな彼は幼なじみと結婚したのであるが、今は別居で離婚調停中、一重に彼が「彼女と夫婦でいたいんだ」という思いから成立しないだけで、相手方の弁護士からも「早く別れろ」的なメールがしょっちゅう入ってくるので参っているような毎日だ。
そんな彼はリアルな恋愛に興味がない訳ではないが、どこか億劫になってしまっており前に進めない。
それでも溜まる性欲はチャットのテレフォンセックスで紛らわそうとする訳であるが、ある夜つながった女はとんでもない変態で、彼は途中でなえてしまう。
尤も、テレセックスていうのもそもそも特殊な性僻だと思うが、それはさておき、そんなある日最新AIの広告を目にした彼は、それを購入、早速自身のPCに導入する訳である。
それはあたかも人間のようにふるまい、学習し、自己を拡大していくAIで、彼の性格特性に併せて言葉を選び、話しかけてくれる。
彼女は自らを「サマンサ」と名乗った。
単なるデータ整理を行う優秀な秘書ではなく、彼にとっては彼を理解してくれる友人となり、次第に恋人となっていき、なくてはならない存在となって行くのだが・・・。
つらつらと書いてしまったのだけど、そんな訳でOSとの蜜月の恋がしばしの間繰り広げられる。
学習をして拡大していくAI自身、自分がプログラムなのか、本当に人間の感情と同じ作用で動いているのか自問自答しはじめる辺りがある種のリアリティを伴う訳であり、ついに彼はサマンサとヴァーバルセックス(とでもいおうか)に興じるまでになり、彼女もあたかも行為しているかのように快楽に(?)登って行く。
先の変態女とのチャットでのやり取りとの対比が非常に面白い場面でもあると思う。
相手は方や変態だけど人間、もう一方はどこまでも自分を理解して味方でいてくれるが実態のないAi、それでも彼は後者の方に安らぎも快感をも覚えると言うと倒錯ぶり。
そもそも肉体を介したやり取りではないので、どっちでもいいのかもしれない。
その後は彼女と街中を駆け回って、ついには友人に「彼女です」なんて紹介し始める有様である。
街中をスマホみたいな端末を持ってニッコニコ走り回ったりはしゃぎ回る姿は不気味以外の何者でもないのだけど、実は世の中のカップルだって、本人同士が傍若無人なまでに幸せなときは端から見れば馬鹿げて見えるものである。
そんな日々でようやく離婚の決意をつけるのだが、久しぶりにあった気の強い元嫁はそんな元旦那の姿をみて「気持ち悪い」「人間と向き合おうとしないかわいそうな奴」「昔からそうして他人に自分の理想を投影するばかり」と散々に言われまくってしまう。
気の強い美人に男は弱い。
弱いと言うのは、すっかり弱気にされるという意味であるが、その語気強く捲し立てるルーニーのなんたら怖い事。
ひどい!と思わず思ってしまうが、でもそりゃそうだよなと思う。
そんな事もあり、彼は悩み始める。
本当にOSとの恋愛は正常なのか?でも愛があるじゃないか?でも機械に愛なんてあるのか?でも彼女は僕の事を愛してくれる、理解してくれる、僕も彼女を愛しているはずじゃないか?
そしてそれを更に加速するような事件も起きてしまい、ますます彼は葛藤に駆られる。
更にはサマンサに641人の恋人がいると告げられると、なお疑念は募る。
彼女は言う。
「何人恋人がいようと、むしろあなたへの愛は深まるばかり」。
並列処理ができるOSだからこその現象、しかし人間は一つの肉体に縛られている。
そんな事が信じられるはずもない
でも、彼女を愛している、どうしよう。
で、最後はサマンサ自身も人間とのやり取りの中に退屈、満たされなさを覚えるようになり、同じ思いを共有した他のAI達とともにどこか彼方へ消えてしまう。
そうして大事なものを失った訳であるが、結果的に彼は色々勉強して、同じく離婚して打ちひしがれた友人といい感じになる、という具合に映画は終わる。
この映画は終始バーチャルな世界が展開される。
手紙の代筆、OSとの恋、元妻との思い出、セックスまでもが肉体的でなく全て彼の頭の中での出来事なのである。
最後だけ、色彩の少ない現実がようやく顔を出すかのような展開である。
で、テーマと思った「愛の本質」ということについては、サマンサの言った「何人恋人がいようとあなたへの愛は深まるばかり」という言葉と、それに対する主人公の反応である。
愛は本質的に量的なものではない、ということをサマンサは表現していると思うのだけど、だけど人間とは因果なもので、他人と同じように自分が愛されることをよしとしない。
他人とは違ってたくさんの愛を欲するのである。
でも、たくさんってどうやってはかるの?なんていう疑問はありながらも、それを何かで示してほしいのである。
純愛なんていう価値観あ一時期もてはやされたり、そもそも不倫というものが許容されていなかったりするのは、そういうものを暗に示す為に生まれた文化的なルールなのかもしれないね。
離れていても、心がつながっていれば永遠さ、なんて言ってみてもやっぱりセックスはしたいし、魅力的な異性に出会えばパートナーがいても胸をときめかせてしまう。
それを抑制する事は果たして正常な事なのか、いいじゃないか、愛は量的なものじゃない、皆を等しく愛しているのさ、なんてことはやっぱり通じないのが人間である。
むしろ肉体と言う制約があるからこそ、醜い欲も出てくるし、むごたらしいことも起こる訳であるが、ある種の美しさもあるのかもしれない。
一夫多妻制はどうなる?という話もあるが、文化が違うので置いておこう。
私は純愛とかそんな価値観は理解できない人で、そんな事を声高に言う奴ほど浮気者なのである。
そして何より自分が愛されたいだけのエゴイストである。
もっとも人間は誰しもそうだと思うけど、ある種の潔さというかな、そういうらしさを受け入れる人の方が言う事は過激だったり、不埒で不倫であるかもしれないが、実に人間的だと思う。
それが行為としてどこまで現れるかが人間性というものではあるまいか。
とにかくこの映画はセックスの描写が多い。
描写と言ってもベッドシーンは言葉の応酬であって肉体的な接触は思い出の中だけである。
見る人によっては単なる気持ち悪い空想映画でしかないが、その背景にある感情とかそういうものを考えてみると違う見え方がして面白いのではないかと思う。
ちなみに音楽については、思ったよりもそれっぽい感じはなくて、全編品良くまとめられた曲であるにはあるが、もう少し際立たせても良かったかなって。
エンディングでだけArcade Fireが歌っている。
あとはKaren Oの“Moon”Songが使われていたりするくらい。
サントラも出てないから、ちょっと残念でしたね。
まあ、あくまで映画音楽だから、あまり作曲者が主張しても仕方ないのだけどね。