音楽放談 pt.2

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狂気の世界は思いのほか穏やか? ―The Madcap Loughs

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音楽にも陽性と陰性があって、私は個人的には後者の方が好きであって、しかし一般的には前者が好まれる。

明るい事は良いことだ、というのはいかにもアメリカ的な価値観であるらしく、イギリスに行けばそうでない、と大学の頃ある先生がしきりに言っていた。

もっとも、先生は内向性・外向性に関して言っていたのであって、別に陰とか陽の話ではなかったが、しかし今日本でよしとされている価値観というのは往々にしてアメリカに毒されているというのはみんな良く知っているのだろう。

ま、別にそんなことはどうでも良いけど。

ただし、ネクラな奴をそれだけであざ笑うかのような風潮が見られると良くない。

でも、自分も明るい方が好きだけど、一方でメチャクチャくらい部分も持っているから、あんまり批難はしたくない訳である。


それはともかく、音楽の陰陽について考えてみると、陽性の音楽はやはり昼間に聞きたくなるし、気分がいいときにはそちらを聴きたくなる。

どちらかと言えば昼間に聴きたいと思うし、聴くと楽しくなる。

ひらけた精神性を感じさせる音楽と言えるだろう。

日本で流行るJ-POPの場合、ほとんどがこれに当たるのであるが、残念ながら私はJ-POPの音楽で楽しくなることはない。

なんか表面的な感じがすごいから。

これなら楽しいでしょ、こういうのが良いんでしょ、というのが見え透いていて聴いていると気分が悪くなる。

重要なことは、やっている当人たちが楽しんでいることである。

そこには第3者の視点など必要ないのだ。

そういう意味ではひらけた、とは言えないかもしれないが、でも発散することに楽しみを見いだしている感じが重要なんである。


一方で陰性の音楽はといえば、反対に閉じた感じの音楽。

自分の内面をひたすら掘り下げていくような感覚の音楽は、この種の音楽である。

そんな音楽は明るくないし、人が自分の内面を掘り下げようという場合、暗くなるのは必然のようにも思われる。

トラウマティックな要素をこそ掘り下げるであろうから。

この種の音楽は昼間よりも夜、もっといえば深夜の方が心地よい。

ある番組で観たのであるが、自殺志願者や深い悩みを抱える人が一番深淵に近づくのは深夜2時頃だそうだ。

ちょうど昔でいうと丑三つ時という奴であろう。

幽霊なんかがでると昔からいわれていたのは、そうして人が最も内面に沈み見やすい時間帯で、それがいかにも魔物の仕業のように昔の人には思えたのかもしれない。

そうして自分の内面に沈んでいくと、ときに死がちらつく瞬間が確かにある。

眠れない夜の、あのやけに目が冴えて、頭が明瞭で、しかし思考は果てしなく沈んでいく感覚は、良いものではない。

そういうときに孤独に苛まれるのであって、自殺志願者が一挙に死に駆り立てられる気持ちもわからなくはない。


少し話がずれてしまったが、しかしそうした負のイメージを付加しやすい陰性の音楽にも時に人は癒される。

同じフィーリングを共有できるような気がするからだろう。

暗いというだけでなんだかひどく邪悪なものの様にしか捉えられない人間は、人間として何かが欠落しているようにさえ、私には映る(ちょっと言い過ぎました)。

陰陽いずれにしろ、音楽には何かしら精神に働きかける要素があり、それがやはり音楽の最大の愉しみではなかろうか。


面白いもので、世の中にはそうして一概に陰にも陽にも分類しがたい音楽が存在する。

いわゆるポストロックというやつは概してそういう傾向にあるが、あれはあえて感情を排しているような側面もあるため、当然といえば当然なのかもしれないが。

しかし、感情も何も入っているはずなのに、どちらともつかないような音楽も存在するのが、何より面白いというもの。

最近ようやく買って、聴いて、そんな風に思ったのが、かの有名な初代Pink Floydのリーダーにして、脱退したにも関わらず後年のバンドの人気に一役も二役も買ったのが、Syd Barrettのソロ作品「The Madcap Loughs(邦題;帽子が笑う、不気味に)」であろう。

まだ聞き込んでないのでそんなに多くのことは語れないが、この音楽はなんとも不思議である。

全体的には穏やかで、噂に聞いた狂気を感じさせる凄まじさはないような感じがする。

むしろ心地よいくらいのテンポと音数で、夜に流しているとこれ実にいいあんばい。

こじゃれたバーでかかっていても違和感ないくらいだもの。


しかし、よく耳をこらせば奇妙にねじれた音や、そこかしこになんだか奇妙な感覚もちりばめられている。

感情のあるようなないような声も伴って、意識し始めるとその奇妙さが不気味さを持ってくる。

何気なく聴いている分には本当に普通に心地よいくらいである。

この奇妙さというのは、どこから来るのだろうか。

彼が何故バンドを脱退したかと言えば、ドラッグである。

フロイドの1stを聴くと、プログレではなくサイケであるのはよくわかる。

音楽生が全く異なるのは、ひとえにバンドの音楽的イニシアティヴを握る人間が変わったからに他ならない。

その1stで握っていたのがシドであって、彼の感性が遺憾なく発揮され、かつ独自性を放っていたのはこのアルバムを聴けばよくわかるであろう。

まあ、ソロよりもフロイドの1stの方がロック的な要素も強く、他の者のセンスも加わっているので、より力強く響くし、音楽的には刺激的であるように思われる。

それに、そちらの方は陽性であると判断されるであろう。

しかし、ソロ作品は陰陽いずれともつきがたく、ただそこらをふわふわ浮いているような感覚があるのである。

まさにドラッグで向こう側の住人になりつつあった、シドの当時の心象風景を描いたかのように...。


なんて知った風なことを書いてしまったが、狙ってそうしたのではなく、出てきたものがそうだった、というような部分は確かにあって、それが何よりこのアルバムを狂気という言葉で語らせているのかもしれない。

また、このアルバムのジャケットはかの有名なヒプノシスのストーム・ソーガーソンという人の作品なのだが、非常に秀逸なジャケットである。

夕方、夕日の射す部屋の一角で、顔に影がかかってはっきり見えないが、確かにこっちを見ているシドの写真。

床は横しま、至ってシンプルなちょうど品、花瓶。

アルバムタイトルや曲の雰囲気、またシドの狂気というイメージをうまいこと表現していると思う。

一見なんの変哲もないのである。

特別何かを感じる訳でもないけど、しばらく観ていると奇妙な感覚があって、段々不気味に思えてくる。

彼の音楽そのものではないか!!(ではないか・・・)。

ちなみにストームのアート集にも収録されており、作品に関して本人がライナーしているが、この作品についてはシドへの哀悼の意が述べられているくらいの、短いものになっている。

実は相当ナイスガイであったらしい。

写真で観る彼の肖像も、実に良い男である。


若かりし頃既に狂気の人といわれていたシドも、60過ぎまで生きた。

ピストルズのシドがスキャンダラスに21?で死んだのとは対照的な気さえする。

もっとも私はヴィシャスを崇拝もなんにもしていないので、どちらが良いとか悪いとかの話ではない。

一体どんな40年間を送っていたのかは私は知らないが、恐らく自分が今も尚伝説のように扱われているとは思っていなかったのではないだろうか。

彼の死は、知る人ぞ知る密やかな大ニュースであったのは間違いない。

後年はおそらくドラッグの過度の副作用も落ち着いていたのだろうと勝手に思っているが、しかしだからといってこちら側に生きていたのかどうかは、どうだろうね。

あのどこともなくフワフワと漂うな感覚の中でずっと生きていたのだとしたら、それはどんな人生であろうか。

知りたいような知りたくないような。

そういう人間をかっこいいというほど馬鹿でもないが、こんな精神を人が描きうるというのは、それはそれで興味深くもあり、面白くもある。