
最近のニュースってびっくりするくらいしょうもないことが多い。
重大事件というべきももちろんあるし、報道するべきだろうなという事案もあるけど、一方でそれをこんなに時間を割いて神妙な顔で議論する理由がわからないこともたくさんある。
それこそ不倫のニュースとテロのニュースが同列に報じられるのはなんだろうかと思うよね。
また最近はネットニュースが普通に情報収集の場として活用されているのだけど、単にニュースのポータルサイトみたいなものが増えただけで報道機関なんかが増えたわけではないだろう。
むしろ本質的な意味でちゃんとした報道や、記事を書いたりでいる人は減っているのではないかという気がする。
片方で受け取る側も文章もろくに読めない、読まない、理解できないという人も多いようで、断片だけでああだこうだと言っている。
キャッチコピー命となっている状況だから、ニュースの見出しも過剰なまでにキャッチコピー化している。
そもそもスマホで見る場合はザッピングというのか、見出しと数行だけ見て次に、という感じの見方をするからそうなるのだろうね。
LINEニュースもかなり利用している人もいるというけど、あの情報量で一体何がわかるのかといまだに不思議に思うが、あれくらいでないと読んでもらえないのだろうね。
まとめ方はめちゃくちゃうまいと読んでいて思うけど、記事を作るのとは違う能力だろうし。
チャットという文化自体が読み込むとかそういうのよりも反射的というか、そういうやりとりだものね。
それと同じような形態や状況で見ると、そういう情報の取り方になるのは仕方ないのかもしれないね。
でも、個人的に不思議というか、もっと言えば気持ち悪いなと思うのはニュースのつくり方。
明らかな悪意を持って作成されているものが多いなと感じる。
そう感じる理由は、こういう書き方をすれば炎上するだろうなということがわかっていてやっているとしか思えないし、実際そうしているんだろうことがわかるから。
アクセス数が大きな価値のネットメディアに於いては、もちろんそれは正解なのだけど、でもそれは広告と同じ価値観で見ているということだから、それって違うんじゃないかなと思うわけだ。
もちろんどんなにいい記事を書いても呼んでもらえなければ意味がない、という視点に立てばまずは見せるという目的が第一義に来ることも別にわかるのだけど、それがいきすぎて結果全てくだらないものとみなされてしまい得るだろう。
また、悪意と同じくらい過剰な感動の押し売りのようなものも目立つ。
なんでも美談、なんでも感動、別にいい話はいい話でいいのだけど、それを壮大な物語、しかも安っぽい演出のお陰で白けて仕方ない。
これはテレビも同じだけどね。
でも、こういうのが受けるからそうなっている側面があるわけで、だから不思議なのがみんなそんなに何を求めているのだろうということである。
一時なく為に映画を見るとか、何かそういうイベントを催すというのが流行っていたのだけど、今ではそれが日常になったということなのだろうか。
批判的なタッチのキャッチコピーには記事の内容まで触れることもなく批判をして、感動的な記事にはとりあえず感動っぽくして、紋切り型の反応をしてみせる。
見事だ。
その中でもやっぱり批判的な方向に行くのはなんだろう。
こういう社会になっているのは、なんかこう、違和感というか、居心地の悪さを感じるのだ。
一つ前のアルバム『Fascination』1曲目に収録されているのだけど、曲のテーマはパパラッチとそれを批判しつつも楽しんでいる大衆の姿である。
セレブの太ももにあるセルライトの写真を必死に取りたがるパパラッチ、それを見て喜ぶ大衆の姿を通して人のいやらしい部分とか、下衆なところを切り取っている。
批判的なタッチではなく、あくまで客観的というか、そんな自分の姿がちゃんと見えてる?とでも言いたげな感じだと思っている。
ありえな~~い、とかいいながら、大概お前もありえないよと。
大体そういう人達っていうのは自分以外のところに正義を求めて、正論という体でいうから気持ちが悪いんだよな。
ちなみにこの曲のタイトルは、和訳すれば「(簡単に)そそのかされる」となる。
何にでも批判的な人はいくらでもいるし、そんなものにいちいち拘うつもりもないけど、本当に悪意と言っていいレベルの情報がいくらでも垂れ流されていて、それって異常だと思う。
異常だけど、ある種本質が出ているとも思うし、視点を変えればそうやって悪者を見つけて自分を正当化しないとやって入られない、という人も多いのかと思うとそれは不憫だ。
別にそんな奴らなんてどうでもいいけど、とにかく気持ちが悪い。
もっとも昔から何かが大きく変わったわけでもないだろうから、そういうものがより顕在化しやすくなっただけの話だと思うのだけどね。
"Get Seduced"