音楽放談 pt.2

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14の幸せの物語 Happy Hollow

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来週にはまた一つ、楽しみな新譜がでる。

Cursiveというバンドの奴ね。

来週には給料も入るので、いくつかまとめて買おうと思っている。

既にでているが、ちょっと小銭が足りなくて買ってない奴もあるし。

マンソンも出した、Black Diceも聴きたい。

Animal Collectiveも聴いてみたいし、Lily Allenもせっかくなので欲しいと思っている。

リリーと言えば、女の子のポップアイコンであり、あまり男が好んで聴くタイプの音楽ではないかもしれない。

しかし、私あの子好きなのですね。

インタビューなどが非常に面白いのである。

歌もうまいしね。

つき合いたいかどうかと問われれば、それはまた別の問題だけど、ああいうタイプの女の子は個人的には好きである。


それはまあいいとして、Cursiveと言えばThe FaintBright Eyesらとともにオマハの代表格である。

Bright Eyesのコナーがソロも含めて非常に活動が活発なのに対し、彼らはここ日本にいるとどうも動向が少ないような印象である。

実際は向こうでツアーとかしているんだろうけど、認知度などを考えると致し方あるまい。

ともあれ、こうして新譜がでればきちんと日本盤もでるのでうれしいことだ。


前作にあたる「Happy Hollow」は、当時の不安なアメリカを象徴するような重く、激しく、引き裂かれるような激情の籠ったアルバムであった。

内容的にも当時のアメリカという国の歪さを描いたコンセプトアルバムで、宗教、政治、性、暴力など、社会の中で大きな影を投げかける問題を寓話的に描いていた。

音楽的には前々作と大きく変わった風はなかったが、とにかく激しく、迫力のあるアルバムであった。

日本ではほとんど話題にはならなかったが、一部では非常に評価が高く、当時のアメリカの空気をもっとも反映していると言われていた。

不機嫌さという感情がこうも露な音楽はたしかにそうない。

漠然とした不機嫌さ、という空気が強く、ただ激しいだけでもなく、ただ叫ぶだけでもなく、音の中に見事に封じ込まれている。

音楽と言うもので表現する、という観点からすれば、見事と言わざるを得まい。


架空の街「Happy Hollow」で繰り広げれるほんのささやかな日常の事件、その背後に潜む大きな影、その影は光に照らされているから、目にしても誰も気がつかない、気がつけない。

当たり前の価値観に隠された歪さの正体、倫理と言うなの不倫理、神という名の偶像。

14の物語描かれているのは、そんな社会のひずみの部分。

何かおかしい、当然のように過ぎているけど、なにかおかしい、そんな感情が渦を巻く。


夢から覚めたくない少女、その夢も果たして自由の妄想か。

神が出来上がったその瞬間、人が出来上がり、人は罪を負わされた。

そんな奴のために何故ひざまずく?

己の真の欲求に従うことの背徳感、それを生み出す教義という名の鎖。

なぜこれが間違っているというのか、間違っていると言われているから。

社会のため、とは一体誰のため?

そこに住まう人の価値観のため、彼らの神のため、主のため。

純粋な感情は推奨され、同時に否定される。

すべては主のために。

そこに縛られ続ける悲劇、途方もなく練られた計画のうち、うまく行くものは?

そこに充満する空気は、僕らを殺す。


アメリカ社会では価値観の根底にはキリスト教がある。

どんなに逃れようとしても、生まれたときからその価値観に満たされた空間で生きているため、その価値からは逃れられない。

その息苦しさを感じる奴らは、音楽に乗せて、絵画にのせて、芸術という手段で戦おうとする。

Art Is Resistanceというスローガンは、2年前のNINのツアーTである。

Arcade Fireの「Neon Bible」もそう。

かつて、思想家ニーチェがキリストに関する鋭い洞察を見せた(未読ながら是非読んでみたい作品)。

そんな感情がこのアルバムには渦巻いている。

おそらく、ここ数年の世界情勢のあり方などにより、アメリカ人自身が保守派と呼ばれる連中に疑問を抱きはじめているはずである。

人間は、神を貶めすぎた。

「God is Dead」という言葉の意味を考えるべきである。

私はキリスト教徒でもないし、全然詳しくもない。

しかし、少なくとも昼間に街宣車で布教に努めている連中の言うことにはうさんくささ昔から感じなかった。

電柱の広告などの文句にも、何一つ感動しなかった。


この種の問題は別にキリスト教に限った話ではない。

それぞれの国にそれぞれの文化があり、その文化には何かしらのルーツがある訳である。

日本で言えば、武士道というのは今もまだわずかにでも残っているだろう。

最近メディアを中心に、さかんに武士道だ侍だという言葉が乱発されるが、こういった行為こそが本来の意味をゆがめ、その思想性を歪めるのである。

キリスト教とて、それ自体を否定するべきものではないのかも知れない。

問題なのは、キリスト教の名の下に、その教義を歪め、自分たちに都合のいいように書き換えて、それでもって夜を支配せんともくろむ連中である。

そいつらの唱える神は、もはや神ではない。

武士道とて、同じことが言えよう。

現代風に解釈すれば、なんていう都合のいい尺度を持ち込み、本質を歪めていく。

もうあと何年かすれば、すっかり新武士道が浸透するかもしれない。


私は、個人的には社会的望ましさという奴が大嫌いである。

人間はこうでないといけないとか、こうあるべきと言ったことを、しきりに押し付けたがる奴がいる。

男らしさ、女らしさもその一つかも知れないが、それらをしきりにしつけたがる奴らの顔は、本当に歪んでいる。

おそらくそういうものに遭遇し、違和感を覚えた記憶のある人は結構いるはずだ。

それでも、いつの間にかそれが当たり前になっていっている可能性がある。


人は外交的で、常に前向きでないといけない、という価値観は、その最たるものではあるまいか。

しかし、元来日本人は外交的な質でないし、非常に慎重さに長けた国民性を有していると思っている。

それだからこそ、日本では細かな技術が発達したんだと思うし、万全を期すると言う姿勢が今日に至る世界レベルの意識につながっていると思う。

しかし、舶来の価値観により、気質に合わないものが持ち込まれ、それを強要するかのような教育が施される。

なぜ内向的ではいけないのか、なぜ友達は多くないといけないのか。

それらを実現できないものは、あたかも社会的落伍者でもあるかのような目で見られる。

そんな馬鹿な話はない。

でも、世の中はそれで動いている。

あたかもそれが絶対の正解であるかのように。


こういう感覚がわかる人なら、このアルバムは一度聴いてみる価値があるだろう。

別に歌詞の内容に共感しなくてもいい。

重要なことは、それをおかしいと思える健全性を肯定できる態度である。

このアルバムの最後には、エピローグとして、ある種の言い訳と言うか、弁解のような内容になっている。

あるいは、上述のような人々を弁護するような内容でもあるかも知れない。

いずれにしろ、このアルバムにおいては、何かを否定している訳でもないのである。

だから、逆に言えば何をも否定できないんじゃないか、という事だとも言える。

ある尺度で見ればそれは愚かであり、不倫理であり、罪である。

しかし、別の尺度で見れば、別に何一つ断罪されるべきことなどないのである。

社会が社会として成り立つためには、秩序が必要である。

むしろ、秩序こそが社会というものの正体だとも言える。

仮にそれに対してある種の違和感を覚えたとしても、それは間違いではない。

ある程度安定したものに訪れるのは、緩やかな腐敗である。

完全に腐りきる前に、旧体制にとどめを刺し、新たな秩序を作り出すことで歴史は続くのである。

従って、もし新たな視点を叩きつぶそうとする風潮があれば、その社会はもはや腐り始めていると考えた方が良いのかもしれない。


ま、かなり本線から逸脱したけど、こういう真に迫る音楽は、やっぱりすばらしいですよ。

単に一時の享楽のためだけに音楽は機能する訳ではないと言うことを改めて教えてくれる。