私は日本という国自体は好きだし、日本人で良かったなと思うことの方が割と多かった。
それってなんでかな?と考えたときに、そんなに勉強熱心なわけでもないし海外のこともそんなによくわからないけど、少なくとも美味しいものを食べて、面白いものを見聞きして、それなりに楽しく生きてきたからだろう。
それに武士道精神とかそういうのも好きだ。
ちゃんと理解してないけど。
でも、私は日本人という集団が好きかと言われればそんなこともないかもな、と最近思うことが多い。
むしろ、なんだかうんざりするなと感じることが多いんだけど、それってなんでだろうという話である。
震災だったり洪水だったり疫病だったり、色々とどうしようもない、いわゆる天災というものが起きるたびに、日本は特に海外では好意的に報じられることが多かった。
緊急事態でも盗みが起きない、犯罪に走らない人が多い、とかいって。
その点については、暮らしている本人からすれば助かることではある。
そしてそうした海外ニュースが出るたびに、今度は日本国内で、ニッポンハスバラシイデスネ、と各局テレビでも報道されていたり、ネットの掲示板などでも〇〇国アリガトウ、とかいって謎の感謝祭が始まる。
政府は政府で、ガンバロウニッポン、キズナダイジ、とかいうキャンペーンを打っては一緒にあたふたしている。
もちろん全く仕事してねぇじゃん、なんてことまでいうつもりはないし、それで本当にしんどい人が励まされる場面もあるなら完全否定はしない。
でも、なんか気持ち悪さを感じるのですよ。
その気持ち悪さって何かなというと、やはり平時の時の世の中のあり方と急に態度がコロコロ変わるからだろう。
しかも一人だけじゃなくて、さも世論がそうであるかのようにも感じられる。
最近でもテレビもラジオもネットもそういう風潮に一気に染まっていって、時たま「いやもうちょっと冷静になろうよ」的なことをいう人があっても、「そんな場合じゃもうないんだよ!」みたいな感じで怒り狂っている。
どうしたんだろうか、この人は。
まさか個人的な話でここまで多くの被害者がいるわけでもあるまいに。
当事者かと思うくらいに燃え盛っているのだけど、ただコメントなり主張なりをよくみると大したことは言ってないのだ。
なんなら誰でも言える正論だけを得意げにのたまっているだけなのだけど、それが一人じゃなくて結構な数が語尾だけ変える、ちょっと方言混じってるくらいの差分でもりもり出てくる。
なんだこれは?
それだけ国民全体が怒ってるんだ!日本の恥だ!これがわからない奴は日本から出て行け!!とか言い始めるのだから、訳がわからない。
よくないことなのはわかるけど、そこで感情的に怒り狂って何か解決するの?て思っているだけなんだけど、彼らの論理ではどうやら私は非国民であるらしい。
なんでだ?
もっとも、ここでいう彼らも誰のことのなのかは、正直私もよくわからない。
この人たちは誰なんだろうって。
こんなモヤモヤをずっと抱えていたんだけど、この間何かのポッドキャストだと思うけど、そこで出ていた話が非常に私は腹落ちしたものであった。
日本人と中国人、実は中国人の方がルールを守る、みたいな話を半ば冗談みたいな感じで喋っていたんだけど、そういう背景として日本はハイコンテクスト社会という概念について話していた。
私は恥ずかしながら知らない言葉だったので調べたんだけど、ざっくり言えばいわゆる日本的なコミュニケーションと呼ばれるものが成り立つ社会だ。
要はニュアンスとか雰囲気、空気って奴だね。
忖度という言葉はまさにそれを表している表現なんだけど、この言葉が問題になること自体が、日本の価値観自体が変わってきているという大きな証左なのかなと思ったのだ。
コンテクスト=文脈だけど、言葉の意味そのものよりも空気やその場の流れ、文字通り文脈を重視しているという話。
なので対概念はローコンテクストになるわけで、こちらはいわゆるアメリカ的なコミュニケーションという感じ。
で、さっきの話に戻ると、日本人はルールだから守るんじゃなくて、みんなが守っているから守るというのが根本の行動原理になっている。
言葉の上で正論が滑って見えるのは、結局根本の行動原理と言っていることが一致しないと感じるからだろう。
実際コロナの自粛問題でも、「みんな我慢しているから」ということが仕切りに叫ばれているのは、まさにそのことを暗に表しているだろうし。
日本人が優しいんじゃなくて、その人が優しいだけ。
もちろん全国民が須くというわけではない、というのは一応書いておかないと、またすぐ烈火の如くに正論棒を持って殴り込んでくる人がいるから。
なんでそういう人が正論を持ってくるかというと、正論って正論だから否定しづらいんだよね。
その言葉自体は別に間違っていないから正論なわけで、でもあくまでそれは論。
面白いのは、正論なのはわかるけど世の中はそんなに単純じゃない、という正論でもってそれを打ち返す様もあって、その時々によってどちらが趨勢か、ある種の正しさを判断しているのはそこだけではないだろうか。
正論しか言えないのは別に信念があるわけじゃないからだろう。
世の中的にそういう感じだから乗っかっておこう、よっしゃ、俺正義、イエイ、みたいな。
でも、ほとんどの場合主語は巧みに隠されていて、みんなも言ってるけど、やっぱりこうだよね、みたいな言い方のイメージ。
だから、赤信号みんなで渡れば怖くない、なんていう標語も出てくるわけで、これってまさにそういう状況を揶揄しているんだと思うが、どうだろうか。
一人で部屋の中で騒いで踊って屁をこいている分には誰も迷惑しないからいいんだけど、ネットというものが特にそれを大声で世の中に喧伝するし、得てして頭の悪い人は声がでかいのは不思議とネットでも同じで、文字なのにやたらあちこち出てくる。
日本人の民度も相当低いからね、残念ながら。
正確には、見えにくいだけで収入だけじゃなくてそうしたところにも大きな溝がある、という話だと思うが。
だからローコンテクストがいいとかそういう単純な話ではなくて、ハイコンテクストな方がいいと思える側面もあるだろう。
文化の話でもあるから一概にいい悪いの話ではなくて、重要なことは少なくともそうであるということを理解していることは重要だなと思うわけだ。
私はこの概念を知ってモヤモヤしたものが妙にすっきりしたんだけど、引き続きハイコンテクストなコミュニケーションもとるだろうし、でも必要に応じてローコンテクストなコミュニケーションも理解して活用しないといけないだろう。
こういう使い方の言葉じゃないかもしれないけど、言わんとしていることがせめて伝われば幸いだ。
ハイコンテクスト。
それにしても、最近不意にスターリンの曲が流れ出すことが多くて、数いつ前に書いた記事でもスターリンの画像と音源を使ってしまった。
彼の書く歌詞が最近の状況私の中でやけに刺さりまくっているのである。
ところで、画像は拾ってきたものなので、そのうち見つかったら怒られてしまうかもしれないな。
でも、みんなやってることだから、俺だけ言われるなんてことはないか。
そんなの不公平だもんな、別にお金をこれで稼いでいるわけでもないんだし。
そもそも俺が拾ってきた先の写真だって、本当はどっかから勝手に借りてきたものかもしれないわけだし。
それに、さも自分が撮影しました!みたいな顔で使ってる奴もいるだから、そんんな奴から怒られるべきだ。
なんてね。