最近になって改めて自覚していることがある。
私は基本的に外の世界に興味がない。
内と外というのを、どこに境界を敷くのかは難しいし、言葉だけで見れば同じ文字列であることも多いので明確にどうと説明することは難しいけど、あえて言えば何かしらの発言や言葉の背景が純粋に自分の中から出ているのか何か別のものに配慮しているかという違いかもしれない。
最近北朝鮮の動向でテンションが高まっているが、ミサイルが発射された時にJアラートというサイレンが鳴るようになっているらしいが、それに対しても批判が高まっている。
どうすればいいんだとか、意味あるのかとか、そんな内容らしいのだけど、日本人て本当に他力本願だなと思ってしまう。
どうしたらいいの?じゃなくてどうすればいいと思う?ていう話だと思う。
今どうしようもないなら、どうかしようがあるようにするにはどうすればいいかを考えろという話だろう。
これって万事に渡ると思っていて、それこそ仕事でもなんでもすぐにどうしたらいいか、というやつがいるけど、そんなこと自分で考えろと思う。
私の中で内と外という境目を感じるのはそこで、すぐにどうしたらいいの?というような奴とは話したくない。
音楽の歌詞とかについても、そういうのってあって、もちろん全てをその基準で聞く音楽を選んでいるわけではないし、むしろ選んでいるというよりは結果的にそうなっているだけなんだけど、共感できるとか、グッとくるとかっていうところで言えば明らかに違うと思う。
いわゆるヒットアーティストという人たちの表現て、いっている内容とかはいいこと言っているなとか、わかるなというのがあるんだけど、本質的に共感できるかと言えばそうでもない場合が多い。
なんでだろうかと考えると、その言葉がどこから出てきたか、というのがあるのかもしれない。
俺こうやって思うんだ、と思うのか、みんなもそう思うでしょ?と思うのかというか。
別に全員にどっちかを聴いているわけではないからわからないけど、表現の対象が広くなれば広くなるほどそういう傾向はあるし、そうならざるを得ないからそれ自体は別にいいけど、共感できるかどうかでいえば共感できないという話だろう。
共感ていう感覚は難しいなと暗に思うけど、いわゆる響くかどうかが根本なんだろうね。
日本で社会的な音楽がイマイチ受けない理由って、個人という視点が鬱陶しがられる風潮があるからだろう。
村社会という言葉が未だにあるように、こう思うでしょ?というお伺いが重視されるわけである。
くだらないなと思う。
他力本願なくせに文句ばっかり言うし。
そういうやつの共感する音楽って、その音楽自体は悪くないけど、その解釈がいちいち甘っちょろく反吐がでる。
そういうのを見るたびに本当に嫌になる。
こんな日本でも本当の意味でパンクなバンドはたくさんいるんだけど、個人的にはアナログフィッシュの表現はやっぱり好きだなと思う。
もう数年前のアルバムに入っている曲だけど、”Phase”という曲があって、ライブでは定番曲の一つなのだけど、この曲にはヒップホップでいうところのパンチラインがあって、「失う用意はある?それとも放っておく勇気はある?」というライン。
これってものすごく日本人ならではの表現で、しかもその視点がものすごく鋭い。
放っておく勇気はある?というこの後半部分が特に。
ここに勇気という言葉を持ってくることに大きな危機意識が出ているわけだ。
もちろん前段の失う用意はある?というのもすごい。
このまま放置し続けたら、今の暮らしは徐々になくなっていくはずである。
どんなに危機感を煽っても、今の日本は平和である。
そんなに急に変わることってないと思う。
だけど、変化の兆しが出た時にはもう手遅れになっているはずである。
それはもう変わっているということだから。
自分の内側から出てくる言葉と人の顔を見て出てくる言葉の違いの本質は、その言葉の持つ力である。
自分の言葉には責任を持たざるを得ないし、逆に他人の言葉には常に逃げ道がある。
そこで自分の言葉で責任を持てるかどうかが一番重要だし、信用できるのはそう言う人である。
内側の世界ばかり見ている人って、基本的には外の世界よりも、せいぜい半径数メートルの世界のことしか歌わない場合が多い。
だけど、そのぶん外の世界について語る時にはものすごく本質をつく瞬間があるのである。
それに、自分に向いている表現は嘘をつかないから。
なんども言うけど、それを聞くかない、いい悪いの基準にはしていないけど、結果的に好んで聴いているのはそう言う人な気がしている。
俺はこうするよ、ということが健全に議論される環境でないと、本質的に何かが変わることはないと思う。