最近たまに覗いてはニヤニヤしてしまうウェブメディアがある。
虚構新聞というものだが、タイトル通り架空の出来事を創作してさもそれっぽく記事にしているというものだ。
どう考えてもただの趣味としか思えないが、この記事のクオリティが高い。
何がすごいかって、記事全体の1割くらいは本当のことがあるのだけど、それ以外は全て創作だ。
その創作のクオリティがすごくて、絶妙にそれっぽく絶妙に馬鹿馬鹿しい。
登場人物や団体名などもなかなかに手が混んでおり、例えばさまざまな研究成果を発表している千葉電波大学、この名前からすれば理系大学に思えるが、考古学部などど理系以外の学部も存在している総合大学なのだ。
電波で考古学ってそりゃ某ムーだろ・・・みたいなツッコミを思わずしたくなってしまう。
教授名なんかもジョン・ドゥなどそれっぽいが、これは日本でいうところの名無しの権平のようなもので、身元不明の際に用いられる仮名らしい。
このように、ぱっと見だと気にならないものも、あちこちにそうした雑学的な知識も散りばめられている点が非常にインテリジェンスを感じさせるのだ。
嘘は誰でもつけるが、それをフィクション(=虚構)としてエンタメにするためには、やはり確かな知識と知見に基づいた想像力がいるわけである。
ちなみに面白かったという感想以外に読後に得るものは何もない。
なぜなら虚構だから。
昨日のtoeのライブでも改めて思ったのだけど、それをそれとして楽しんでいる人の表現というのは面白い。
かつて坂本慎太郎もタワレコの例のキャンペーンポスターで描かれていた「音楽は役にたたない。役に立たないからすばらしい。役に立たないものが存在できない世界は恐ろしい」という素晴らしいコピーがあったわけだが、その通りである。
奏でる側はともかく、聴いたとて、一緒に歌ってみたとて、別に何かを得られるわけではない。
ただ楽しかったとか、気持ちがスッとしたとか、その程度のものである。
お腹は空くし、栄養にもならない、ましてお金が生まれるわけでもない。
それでもそれがあることによって、周りの景色が少しだけ明るくなったり鮮やかになったり、ともすれば体が軽くなることもある。
私はコロナの後遺症で一時自律神経があかんことになってしまったのだけど、アナログフィッシュのライブを観ていたらそれまで曇っていた頭が急に晴れていくような感覚になったことがあった。
自分でもびっくりしたんだけど、気持ちの問題ではなくて本当にそれを体験してしまったので、やっぱりそういう効果があるんだというわけですね。
世の中的にはサブカルとか、娯楽とか、贅沢物のように言われるところだけど、生きていく上ではやっぱり大事なものなんだと思う。
で、たまに考えてみることの一つに、私にとってピンとくる表現とそうでない表現は、一体何が違うのか、という点である。
音楽以外にも絵画や漫画もそうなんだけど、ピンとくるものとそうでないものとがあって、それは有名無名に限らない。
私なりのそれに対する回答は、どこを見てなされている表現か、という目線というか視線というか、そういうところなのかなというのが大きいように思っている。
端的に言えばセルフィッシュに自分がやりたいことをやっている人。
ともすれば独りよがりと呼ばれることもあるだろうけど、私はそういうものが好きである。
もちろんある程度生業としてやっている人たちは、そこに対する一定の目配せはあるにせよ、ただ世の中の誰か他の人が作った流行り廃りに合わせるだけのものって、何が面白いのかわからない。
なぜならエゴがないから。
強いて言えば、お金を稼ぎたいという思いは伝わってくるけど、お前が金持ちになっても俺は幸せにはならんしな・・・としか思えない。
そこまで強烈ではなくても、toeもそうだし、アナログフィッシュ、Trent Reznor、スマパンのビリーなどなど、私が好きなアーティストはそんな存在だと思っている。
なので、例えばテレビラジオで出てきて、こんなヒット曲が、何万枚売れて、なんて紹介された時に、そこにもっと付け足すようなことを言う人がたまにあるが、見ていてなんかダサいなと思ってしまう。
売れることそれ自体はすごいことだし、売れたい、もっとたくさんの人に聴いてほしいと思うこと自体は全く否定しないけど、私にとってはそこを一義にした時点で表現者ではなく商売人だから。
それが悪いこととは思わないけど、少なくとも同じ土俵では聴かないというだけだ。
どこを見て作ったものなのかな、というのも、不思議となんとなく伝わってくると思っている。
まあ、何度言うがどこまで行っても好みの問題なので、それぞれがそれぞれを楽しめば良いだけの話なんだけどね。
で、ここから大分話は変わるけど、先日歴史上初の女性総理大臣が誕生したわけで、閣僚も決定、所信表明とて高市さんが国会で初の挨拶をした時に、野党からヤジが飛びまくった件が例によって方々で炎上状態となっている。
特段珍しい景色でもないのだけど、時代の変わり目になっていることもあり一般層の注目度もありつつ、また議員たちも自らSNSをやるようになり勝手勝手に発言をするようになるので油を注ぎがちになるわけだ。
こうした発言を見ていてつくづく感じたのは、この人はどこを見て政治活動をしているのか、と言うことである。
多くの人はある種の社会正義というか、日本という国をよくしたいという思いで議員になったはずだ、と思っている節がある。
そりゃそうだろう、そういうことが期待されるのが政治家という職業なのだから。
しかし、世の中にはそうではない人もいて、ただの活動家のような人もたくさんいる。
もちろん政治という文脈に沿う思想なりに立脚しているとはいえ、果たしてそれは誰が幸せになる話なのか、みたいなものもたくさん見受けられる。
そんな彼らにとっては、ヤジは健全な批判の表現であるそうだ。
批判の中身はいくつかあるのだけど、例えば子供に見せられないというのが代表的なものだが、そんな政治教育的に意識の高い人は実際はそんなに多くないだろうから、方便的な批判が大半だろう。
子供を出せば言い返しにくい、正義に溢れると思っている点は時代が変わっても変わらないらしい。
ちなみに、その価値観それ自体は否定はしてないですよ。
ただ私にとってはあまり共感できない話だし、ヤジを飛ばす彼らからすれば、間違ったことをただ黙って聴いていることの方が悪影響だ、悪いことは悪いと表明することの方が大事だ、なんていうこともできるわけだ。
それはそれで論としては通っている部分もあるからね。
それよりも重要なことは、わざわざ国会を中継している意味である。
多くの有権者が新たな総理大臣が何を語るのかをいつになく注目しているタイミングだ。
それを聴いて、この人に任せていいのか、次の選挙では別な人を選ぶべきなのか、そんな判断材料の一つにもなるだろう。
にも関わらず、そもそも言葉を遮ったり、何を話すかを考えることを邪魔するのは、到底議員のするべき仕事ではない。
彼らは表現者ではないのだから、自分の言いたいことをだたただでかい声で喚くことが仕事ではないし、求められていることでもない。
しかし、彼らにはそういう自覚ってないんだろうなということが露見した、少なくともそういう人らが顕在化されたというべきかもしれないが、いずれにせよ彼らの求められる役割として誤っているとしか思えない。
国民の知る権利を妨害しているその行為は、そもそも国会議員としてどうなのかという話が本質ではないだろうか。
さらに別な視点に立てば、長年続く自民党政治を旧態依然として批判することをしばしばするわけだが、野党のあり方としてそうして下品なヤジを飛ばして発言を妨害するというあり方もやはり旧態依然であり、お前らがそんなだからこいつらダメだって思われるんだぞと。
詰まるところ、彼らは政治家でありながらそこで求められる役割を果たさず、自分の考えを訴えるだけの自己表現に走っているから指示されないし批判されるのだ。
ヤジにしても、全く全てがダメとは思わない。
あまりの無茶苦茶さに我慢ができずについ出てしまった、今後はそうではなく、正しく議論で追求していきます!とか言えば批判はされないだろう。
そうせずに、ヤジは正当なものだ、私は正しい、悪いは相手だ、というスタンスばかりだからズレるのよ。
あなたに期待しているのはヤジをすることではないよって。
自分なりの軸なり思想なりは、共感できるできないは別にそれとしてあるべきだとは思うけど、ただそれを一方的に発し続けるだけでは何も伝わらない。
でも、それに気づいていない、というかそもそもそういう考え方ができない人が多いんだなとつくづく思ったよね。
仕事をしていても感じるけど、結局その人に共感できるとか信頼できるかどうかとかは、その人がどこを見て発言、行動しているか、それがポイントだったりする。
役割や立場、職種などによってそれぞれ違っていいし、例えばアーティストであれば自己表現が何よりだから自分と向き合ったものを発信することが独自性にもなって面白い存在になれるだろうし、通常の職場であれば自社の利益を最大化することが求められるので、自社内だけでなく市場と向き合うことは必須だ。
政治家であれば日本なり管轄の地域なりの暮らしを改善することが求められるわけだから、自分なりにこれがいい状態だという信念も大事だけど、他方で異なる立場にも立てないと本来の目的から外れてしまい、それは政治家ではなく活動家の類だ。
活動家が必要な時もあるから全てを否定することはできないけど、場面場面で使い分けもできないと、やっぱりちゃんと伝わらないしね。
ちょっと当て所もないことをダラダラと書いてしまったが、いろんな目線を持って、それぞれが何を見ているか、何を重視しているか、自分の立場と何が違うのかをちゃんと評価できることは、社会生活では大事だよね、と思ったという話である。