音楽放談 pt.2

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小休止125「所謂J-POPリスナーという人たち」

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最近酒を飲みながらヘラヘラとYoutubeとか観つつ、大体においては音楽関連かお笑いを見ているのだけど、おすすめ的なやつで差し込まれる動物系の動画なんかもつい見てしまう。

猫かわいいな、ナマケモノかわいいな、とか言いながら変わらずヘラヘラしているのだけど、たまに例えば猫のお母さんが子犬育ててるとか、子虎が犬に懐いているとか、そういう異種族間のほのぼのとした愛と呼ぶべきものを写したものがあって、それを見るとなんだかホロホロきてしまう自分がいる。

本当なら餌として食ってしまってもいいような関係の2匹なのに、相手がか弱い子供、もしくは赤ちゃんと見るや彼、もしくは彼女は決して鞭打つことはなく、ちゃんと面倒見てあげたり、遊んであげたりするのである。

その加減をちゃんとわかっているというところが、なんだかたまらない。

な、なんてええ子なんや・・・これが、愛やね、とか言いながら。

年をとるってこういうことだろうか。


それはともかく、私はそうやって酒を飲んでいる時に同じくアマゾンなどのユーザーレビューを読んで回るという奇特な趣味がある。

自分で買ったものや、世間で話題になっているものなどについてアレヤコレヤと眺め暮らすわけであるが、それが存外面白い。

マニアックなやつはマニアックな奴の熱いコメントが数件付いているだけだし、一方でそれなりに売れているものは100件以上付いていたりするし、中にはアルバムを重ねるごとにコメント数が減っていくアーティストもあって、こんなところにも流行の冷たさを感じるわけだ。

最近の流行といったらなんといっても宇多田ヒカルさんの新譜だろう。

数年ぶりとなるアルバムで、テレビにもバンバン出まくり。

母親の自殺なんかもあって彼女自身のプライベートもいろいろあって、宣材には困らないという有様である。

そして何よりそのアルバムが発売前から店頭でバンバンポップ出しまくり、業界筋褒めまくり、発売してみれば海外でまで売れまくり、といった塩梅で音楽業界も活気付いたのは、宇多田ヒカルすげぇと思わせるには十分だっただろう。


そんなアルバムなので、さすがにレビューも200近い。

大半は好意的、もしくは大絶賛のコメントとあって、さぞ素晴らしいのだろうと思う反面、割合的には少ないながらに批判的な意見もある。

それらを読むのがこれまた面白い。

ちなみに批判的な意見の多くは「暗い」というもので、聞いていられない、つまらない、アッパーな曲がほしいといったものであったのだけど、その中でさらに見ていくと、ようやくすれば「俺らが聴きたい曲を作ってくれ」といった類のものがあるのである。

挙句「プライベートで何があったかなんて知るか、ちゃんと売れるもの作れ」といった意見もあって、結構びっくりした。

別にそれが全ての代表というわけではないと思うけど、おそらくJ-POPリスナーと呼ばれるような人たちの心持って、結構こういう感じなのかなと思ったのである。


最近CDが売れない、というニュースと合わせてアイドル歌手のCDがこんなに売れたなどということもニュースになる。

そのたびに出てくるのがアーティスト云々といった話である。

曰くアイドルはアーティストじゃない、ミスチルはアーティストだ、みたいな感じである。

曲で売っているからアーティストらしい。

でもミスチルも金太郎飴みたいなシングルばかりではないかと個人的には思っている。

別に否定はしないけど、彼らの曲で感動したことは私にはない。

きっとそんな私は「おかしい奴」と切り捨てられてしまうのかもしれないが、それは仕方のないことだ。

大体Joy Divisionが大好きだと言っている奴がミスチルなぞ好きになれという方が難しいだろう。


それはともかく、そういう人たちにいつも感じる違和感というのは、その傲慢さである。

売れる曲を作ってから偉そうなこと言えとか、フリーダウンロードが当たり前になりつつある時代に「価値がないから売れないのだ」などと言って見るわけであるが、それはあくまであなたにとっての価値でしかなくて、もっと言えば大衆娯楽としての価値は以前ほどないかもしれない、というだけの話である。

それをアーティストがなんちゃら本物はなんちゃらとかっこつけしいことをいうから鬱陶しいのだ。

そもそもアーティストって何?という議論をすれば、多分いろんな解釈が出てくるとは思うけど、人に期待されるものを生み出すのはプロダクト、生産者の仕事であってアートの仕事ではない。

アートっていうのは自分の中の感情とか、外から受け取った刺激を何かしらの形でアウトプットする人たちで、要するに自己表現である。

その表出が他人に理解されるかされないかが金になるかならないかの境目ではあるけど、本質はどこまで言っても自己表現であるといっていいと思う。

だからこそ共感という感情が生まれるわけだし、生涯にわたって好きになるのもそうした本質的なところにリンクできるように感じるからではないだろうか。

言い方を変えれば、別に表現している側にとってはそれを受け取る人間の期待など本質的にどうでもいいのである。

重要なことは、自分の受け取った感情をもう一度再現させてくれるぐらい見事なアウトプットに仕上げることだけだろう。

彼らにとってはそれがカタルシスなのだと思うし、そうでない人はやっぱりアーティストではない。

奇妙奇天烈だからアートなわけではなくて、本人にとってそうした満足度を得られるからアートなのだ。


話が広がったのでまとめると、結局俺の好きな曲を作ってくれ、という評価しかできない人はアートが好きなわけではなくて、その人も一つの道具としてしか捉えていない人なのだと思う。

それこそジョジョという漫画の実写化のニュースが流れた際、賛否両論が飛んだのだけど、面白いなと思ったコメントがあって、「わざわざ映画化しようと思う監督は、この漫画の何を表現したいと思って映画にしたのか」と言った疑問を呈する人に対して「何を表現したいかまで考えて映画なんて見ない」という返答があったこと。

結局多くの人は他人を理解するよりも自分が理解されることしか求めていないし、そのことに自分自身で気が付いていない。

もっと言えば、それが当然で自分は正義だとさえ思っている節がある。

でも、そういう人って珍しくなくて、流行しか見ない人はそういう性質の人なんだと思う。

人間的に悪だとかそんなことまで言うつもりはないけど、得てしてそう言う人とはまともな議論はできないと個人的には思っている。

実際これまでそう言う人とちゃんとした議論になったことはないからな。


音楽の話に戻すと、そういう類の人はJ-POPしか、しかも流行のやつしか聞かない、という人が多い。

他方で人が聞いているあまり知名度のないアーティストについてはめっぽう否定的である。

そんなものを聞いているのはおかしいとでも言いたげだし、実際言う人もいる。

売れているのだから面白い、こんなに多くの人が聞いているからいい曲なのだと頭から信じて疑わない、もしくは疑えないのだろうね。

ひょっとしたら、彼自身は自分自身が他人を理解できないことは自覚的で、でもそれを恥じる気持ちもあるから否定という行動で表出されるのかもしれない。

J-POPそのものを否定するつもりは別にないけど、そこにしか集まれないような連中が幅を聞かせているのが今の社会である。

寛容でないのはそれが原因じゃないかと思うけど、つまるところ自分自身の正義を認めさせたいだけなのかもしれないよね。

狭い了見でしか見られないやつは哀れだよ。

ほんと、本能で動くといわれて見下されている動物たちの方が、よほど寛容で愛に満ちていると思うよね。

結局私はあんまり人間が好きじゃないのかもしれない、とたまに思う。