満たされる人生っていうのはどういうものだろうか。
今の職場には仕事が好きで仕方ないという人が結構いて、毎日遅くまで働いて、休日も稼働して、ずっと仕事をしているのが幸せみたいな人たちだ。
別にそれはそれでその人の人生なので本人が楽しければ別にどうでもいい。
一方で訳のわからない人であってもとりあえず人と関わり合っている、会っている時間が幸せだという人もいる。
私はあんまり人付き合いが得意ではないので、そういう無理に人と会う機会も疲れるだけなので、あんまり好まない。
じゃあお前は何しているんだ?どんなときに幸せなんだ?と聞かれると、とても困る。
私はいつ幸せなんだろうか。
別に仕事は嫌いではないので、ちゃんと自分の思いだったり気持ちだったり、それが伝わった上でちゃんと結果が出た時はとても嬉しい。
また親しい人と酒を飲むのも好きだし、くだらないことをくっちゃべっているのも楽しい。
一方で1人であれこれやるのも好きだし、最近の休日は1人で趣味を謳歌するために出かけて、夜は好きなだけビールを飲んで酔っ払って、そのままぐずぐずになって寝て朝を迎える。
少し重たい頭だが、せっかくの休みだから少し出かけるけど、別に誰に会うわけでも何を買うわけでもないから、漠然とうろうろしている。
別にそれがさもしいとも思わないけど、たまにふと空いような気持ちになる瞬間もあるのは事実だ。
自分でいうのもなんだけど、それなりに仕事では人望を集めてきたし、別に人に嫌われることも少ない。
男でも女の子でも、年上にも年下にも、上司でも後輩でも、割とかかわらずどちらかと言えば好意的に受け取られてきた自負はある。
一方で、プライベートでは友達は少ないし、今は彼女もいなければ特段声をかけてくれる人もいない。
そのあり方にはたと気がついた時に、自分の存在意義みたいなものを思って、なんとなく虚しい気持ちになるのだ。
それは自分で無意識に選んでしまった道なのかもしれないし、そうでなくとも私が求められる場面がたんに限定的なだけなのかもしれない。
いずれにせよ、今の自分は不幸せなわけじゃないけど、幸せでもない、そんな気分だ。
そんな気分の私がふと思い出したように聴いたのが、John Grantという人の"GMF"という曲。
彼は遅咲きのシンガーソングライターで、数年前にサマソニに出演したり、単独公演で来日したりと、それなりに売れているアーティストだ。
フィギュアスケートの高橋大輔が、彼の曲でパフォーマンスをしたことでにわかに話題にもなったが、その曲が"Pale Green Ghost"という曲で、"GMF"の収録されたアルバムのタイトルトラックである。
この曲の歌詞を見ていくと、自己否定の言葉があって、それを誰かに窘められるようなことがあっても、「私はMotherfuckerだ」なんて歌われている。
他人がどうこうというよりは、自分自身が常にそう思い込んでいることで結果的に周囲の人を自分から遠ざけていて、中には寄り添おうとしてくれる人もいるはずなのに、それすらも拒絶して、一定の距離を保とうとするような態度が見える思いだ。
彼はゲイである。
この曲のリリックにもそれを匂わせるラインが出てくるけど、そのことが彼の人生のそうした価値観を育んだのだろうか、などと思うのはただの邪推かもしれないけど、いずれにせよ満たされたいけど満たされない、本当は少しだけ手を伸ばせばそこにあるかもしれないのにそれができない、そんなもどかしさのようなものと、ひたすら自分の性を呪うしかないような悲しさが漂っているようにも思える。
そうしたものは、確かにある環境においては批判や侮蔑などにさらされてしまうものかもしれないけど、それはただそこがそういうやつらしかいないというだけの話でしかなくて、当人が悪いわけではもちろんない。
適切な、ただそれを受け入れてくれる環境さえあれば、彼は彼自身も、そして周りのみんなも幸せだったはずである。
この曲はPVもとても秀逸で、彼はバスケットボールを持って街へ出る。
いく先々で彼の友人たちは男女問わず彼と楽しげに会話して、時にそのバスケットボールで戯れるが、それがキャッチボールのようになることはないし、彼がてからこぼしたボールを拾ってくれる人は誰もいない。
ペットショップでは試しにウサギを抱きしめてみるが、暴れられて服に着いた毛を気にして振り払うだけ。
それを笑ってくれる誰かもおらず、ただ淡々とケージにウサギを戻す店員と、人のような好き嫌いを示さないはずの動物にまでフラれたような気がして、なんだか落ち込んでしまう。
最後はそれなりに小洒落た店で、周りはカップルだらけ、その中で1人酒を飲み、ろくに酔うこともないままに店を後にする。
そうして夜は暮れていくわけだが、前半のそこはかとない穏やかな感じに反して、後半のなんとも言えない切なさたるや。
人が孤独だと感じるのは、実際に他人が受け入れているかどうかという話ではなくて、自分が受け入れられていると感じられないことによると思っている。
本当はそうじゃないかもしれない、自分は受け入れてもらっているのかもしれない、そんな思いがあったとしても、どこかででもそれは気を遣われているだけなんじゃないか、こいつらはいい奴らだから、そう努力してくれているだけなんじゃないか、そんな思いにかられた瞬間に、孤独は押し寄せてくる。
相手がいいやつであればあるほど、それを信じられない自分に自己嫌悪も生まれるから、なおのこと立ち直りづらくなるのだ。
そして、不幸ない人はそれが生涯ずっと続くことではないだろうか。
他人との関係性だけが人生の幸せではないのはいうまでもないけど、一方で人が人である限り、人の間でこそ感じられる満足感や幸せというものはどうしてもあるだろう。
そうじゃない人がいても別に否定もしなければおかしなやつだと思うこともない。
ただ彼はそうであって、私はそうではない、というだけの話なんだけどね。
私はとんでもないクソッタレだ、なんて自虐的に言わずにはおれない人が少なからずとの中に入る。
そう思うようになってしまう背景というは、実は後天的な人の影響があったりする。
同じ言葉でも人によって受け取り方が変わる以上、どんなに注意していても図らずも誰かにそう思わせてしまうことだってあるから難しいけど、そんなふうに思ってしまう人にも、それを乗り越えて幸せだと思える瞬間のある人生を送れるにしくはないないよね。