音楽放談 pt.2

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日本のサイケの『100年後』の今 ―Orge You Asshole

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昔から、というほど詳しい訳ではないのだけど、日本のサイケデリック音楽は海外アーティスト、特にインディ系のバンドには評価が高いらしい。

確か以前Deerhunterか何かのインタビューでも触れられていたし、その界隈のバンド達から日本のバンド名がしばしば登場したと記憶している。

最近ではBo Ningenが本国イギリス初めアメリカでも話題になったりフェスに出たり、ゆら帝アメリカデビューしているしね。

しかし、サイケデリック音楽ってどんなん?と言われると、ギターが揺れてて、夢見心地で、みたいなことは言うけど実は一貫した傾向が必ずしもあるとは思えない。

もちろん似たところが全くないという話ではないけど、表面的な音楽性の特徴はあくまで一端でしかないのだろうなと言う気はする。

でも、ゆら帝にしてもBo NIngenにしても、日常的なようでどこか浮世離れしているような、そんな曖昧な空気があるように私は思っている。

それこそBo Ningenの曲には(不気味な)童謡のような響きや世界観がしばしばあって、そういった日常と非日常の境界線上に連れてこられるようなところが日本のサイケと呼ばれる音楽にはあるように思う。

そうした奇妙なおどろおどろしさが海外バンドには新鮮で、評価する理由なのかもしれない。


さて、そんな日本のサイケバンドの新世代の騎手、というポジションなのかはわからないが、最近聴くようになって好きなバンドがOrge You Assholeである。

年末にろくすっぽ音源も聴かずにライブに出向いたバンドなのだけど、今は着々とアルバムを買い集めて順次聴いている。

聴くようになったきっかけは最新作『ペーパークラフト』の絶賛レビューを方々で見かけて、そのときの宣材写真がマグリットの絵画に登場する紳士のような出で立ちがなんだか私の興味をそそったのですね。

私はどうもいかがわしさなんかが漂うものが好きで、先にも書いたようなある種童話的な不気味さがその写真からも漂っていて、これは聴いてみたいと思った訳である。

彼等のレビューでは必ずゆら帝の『空洞です』が引き合いに出されていたのだけど、聴いてみるとなるほど脱力系の空間を無闇に漂うような風情は通じるものがあった。

ただ、ゆら帝の方がどこか洗練された印象があって安らぎすら覚えるのだけど、一方のオーガの方がどこか気怠くて不安をかき立てられるような印象であった。

始めて聴いたアルバムが3部作の1発目『homely』だったのだけど、当初イメージしていたのとは大分違ったので、しばらくピンと来なかったというのが正直なところだった。

でも、しばらく聴いているうちにそういったフィルターはなくなるので、そうなると段々音楽としての評価が出来るようになるのですね。

そして、気がついたらこんな有様である。


で、今聴いているのはその3部作の2作目『100年後』である。

ジャケットは灼熱の雲の要にも見えるし、爆発の煙にも見えるし、しかもタイトルも白字だから判読し辛くて、全体に曖昧模糊としている。

そして流れてくる音が一発目から不安をかき立てるような旋律である。

相変わらずあどけないヴォーカルの声とのアンバランス感もあって、正直聴いていて楽しい音楽ではない。

ふと思ったが、今何かと話題のセカオワと声質は似ているかなと思う。

ただ、音楽性も表現している世界もある意味では対極な感じがする。

セカオワは私は嫌いだから聴きはしないが、彼等のリプリゼントしているのは青臭い空想というイメージ。

言うなればDズニーランドである。

私はDズニーも正直苦手で、あまりにファンタジックに彩られた世界の裏側の超現実的な側面が却って浮き彫りになるような感じがしてしまうし、そもそも私がその種のファンタジーを求めていないからだろう。

世界平和を歌う事は否定しないけど、地に足の着かない主張に冷めた目を向けてしまうのも事実である。

方やオーガはというと、こちらもある種のファンタジーなのだけど、もっと土着的な匂いがして、それこそ夕暮れ時の街角からくらい影が不意に現れるような、そんな不安をかき立てるものがある。

でも、本当はそこには何もなくて、ただ自分が一人でびくびくしている感じというかな。

よくわからないと思うけど。


話を戻すと、このアルバムは冒頭からそんな不安をかき立てるようなところから始って、タイトル曲の”100年後”は今少し輪郭のはっきりした曲だけど、今度は歌詞がなんだか不安にさせる。

「与えられている嘘にきっと気づかず」という節がサビなのだけど、ようやく目的に達したと彼は思い込んでいるのに、着いたよ、という誰かの嘘を信じてしまっているに過ぎず、本当はどこにもたどり着いていないのだろうか、なんて思う。

このアルバムの歌詞はまだ仔細には読み込んでないいけど、全体にそういう感じの内容が多いように思う。

最後の曲名も”泡になって”とかだし、その前後の曲も概ね誰かを客観的なところから観ているものが多い。

その観察対象の彼は何気ない日常の中で色々なものを信じて生きているけど、その実彼の信じている全ては本当かどうかはわからない。

嘘と断定しているものもあれば、「彼はそう思っている」という主観のみが述べられているだけのものもあるけど、総じて目の前のものの存在そのものを疑うようなところがあるように思う。

私は道路を渡る時にいつも不安になることがあって、私には車が見えていないんじゃないかと言う事である。

ちゃんと左右を見て車が来ないことを確認してから道を渡ろうとするのだけど、実は走ってくる車があって、他の人はそれに気がついているのに何故か私だけがそれに気づく事が出来なくて、気がついたら自分と言う存在を喪失しているのではないか、なんて思う訳である。

まあ、自分を喪失した瞬間にそれに気づく主体はもういない訳だから、私がそれに気づく事は永遠になくて、ということはつまり私は例え本当に車が来ていようといまいとそれを知る事はどっちにしてもできないのかもしれないけど。

・・・頭がおかしい人みたいになってしまったけど、ともあれそんな漠然とした不安感に共振するような曲達が、何故か心地いいのである。


ちなみに彼等の過去の曲はもっとわかりやすいポップな曲もあるし、サイケ的な音楽にシフトして以降も純粋に楽しめる曲もたくさんある。

この前作『homely』はアルバム全体としてのトーンはもっと明るいしね。

この次に出た完結編『ペーパークラフト』は未聴なのだけど、もう少ししたら買おうと思っている。

果たしてどんな音楽なのか、彼等はここで自分達の音楽が一つの完成形を迎えた、的な事をインタビューで語っていたので、そこは是非どんな感じか観てみたいものだ。

また最近ではライブアルバムも出しており、しかもしれが所謂ただのライブ録音ではないコンセプトのアルバムとの事で、こちらも非常に高評価を得ているから、併せてチェックしたいところだ。

年末にライブを実際に観ているが、凄まじいライブだったのを覚えている。

音源のようなまったりとした空気感は欠片もなくて、エネルギッシュで本当に空間全体を音で支配して行くような感じすらあって、非常に良かったのですね。


それにしても、最近が海外のバンドはライブにもほとんど来ないので、国内のバンドのライブに行く頻度が相対的にも高くなる。

それ自体は悪いとは全く思っていないし、良い音楽が割と良く聴ける環境にあるのだからそれ自体は歓迎すべき事である。

ただ、一方でそんな自分の身の上を観るに着け洋楽不況は加速しかしないな、なんて思う訳である。

それはまた別の話ではあるが、ともあれこのバンドは非常に素晴らしい。

また3部作をそれぞれの歌詞も丹念に読み込んでみて、通して何を表現しているか、というのを観るもの面白そうだから、しっかりとチェックしておきたいね。

”夜の船”