音楽放談 pt.2

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小休止128「異常な正常」

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昨日久しぶりに映画を観に行った。

実は結構話題だったらしい『ミュージアム』という漫画原作のやつ。

主演は小栗くん、脇を固めるその他のキャストもなかなか豪華ということと、内容のショッキングさゆえだろう。

私はこの原作漫画を読んだことがあって、映画化しても面白そうだと思っていたので珍しく期待しながら公開初日に観に行ったのであった。

ただ、映画の感想としては正直微妙。

娯楽作としては多分面白いと思う人の方が多いだろうし、実際いいシーンとかもたくさんあったのは事実なんだけど、原作にあったジワジワと追い詰められていくサイコスリラーの雰囲気が雑な脚本と過剰な演出、完全の監督の自己満足としか思えないプラスアルファで損なわれていて残念でならなかった。

残酷描写があるからサイコなんじゃなくて、それを平然と行う奴が普段は全く普通の人と同じ顔で、ひょっとしたら隣に住んでいるかもしれないからサイコなんだ。

そこを勘違いして、中途半端な派手さを求めたり、余計で中途半端な哲学を差し込むからややこしいのだ。

まあ、ここでネタバレしても仕方ないので、興味のある方は一度見て観てもいいのではないだろうか。

グロい要素はあるけど、個人的にはあんないかにも作り物な感じでやるよりは、直接的に見せなくても恐怖感や残酷さを表現することはできたんじゃないかと思うけど。


で、この映画の感想をいくつか観ていくと、『Seven』という映画がしばしばあげられていた。

名前は知っていたけど観たことがなかったので、せっかくなので観てみようといって観終わったのがさっき。

監督はフィンチャーだったんですね。

オープニングからNine Inch Nailsの曲が流れて勝手にテンションが上がったが、なるほど確かにストーリーの基本的な部分や、犯人の振る舞いにしてもかなり参照点担っているんだろうなということが伺える。

ちなみに『ミュージアム』では、ちょいちょい『羊たちの沈黙』を意識してるであろう場面も散見された。

原作ではそんな不自然さなんてなかったのに、そこは観ていて本当に引っかかった。

それはともかく、『Seven』はキリスト教の7つの大罪を元に残酷な殺され方をされていくわけだが、犯人の主張の中にはキリスト教でいうところの原罪というものをそこからフォーカスしているのだろうかと思った。

人は生きていれば小さい罪をたくさん犯しているが、それはなんとなく許されながら過ごされている、といった旨のことを終盤の会話の中で犯人自らされるわけであるが、一般人からしたらそんなものは原理主義者の戯言にしか映らないというのが正直なところだ。

私は宗教のことはよく分からないけど、宗教を信じる人を否定するつもりはない。

でも、あくまであんなものは哲学の一つだと思っていて、その背景に神を持ってきているのは神話の時代のための秩序を保つための絶対者として据えただけではないかと思っている。

だから信じるのは勝手だし、それで幸せに生きられるのであればいいのだけど、それを自分に都合よく解釈して人に押し付けて、人に迷惑をかけるような奴は神の本望でもないだろう。


と、まあその辺のことをあまり書くとYahooの検閲にかかるし、別にそのことを書きたかったわけではない。

図らずも町田康の『告白』という小説も思い出して、その小説のテーマは「なぜ人は人を殺すのか」という非常に重たいものを据えておきながら、作者の答えは「別に理由がない場合もあるんじゃないのか」というものであった。

それを800Pという紙幅を使って描かれるわけで、ついていけない人にはついていけない類のものである。

私は彼の文体が好きだし、面白く読んだので興味があれば読んでみてほしい。

この小説で多くの人がフォーカスするのは800Pの長さでありながら読み切らせてしまう文体の強さなのだけど、少しひねくれた味方をすれば、そうではないところの方がきになる。

その800Pの中でこれが理由だろうということは事細かに描かれているのだけど、最後の最後に本人が「あ、そこまでの理由ってなかったな」といって自害するのであるが、結局そう考えるのは読者の勝手な想像でしかなくて、それはもはや犯人の動機とかはどうでもよくて、各々の都合のいい「本当の」理由があればいいのである。

それを醸成するのはマスコミであり、そこにいるコメンテーターであり、ニュース配信者であり、それを受け取る大衆である。

映画『ミュージアム』のラストでもそれらしいことが語られるが、中途半端だったのが残念だ。

ちなみに『Seven』においては、犯人が自首した後遺体を隠した場所へ刑事2人を案内する、といって車で移動しているときの犯人との会話の中でそれとなく描かれる。

「私が異常者である方が安心か?」「その通りだ、くそったれ!」といったような会話があるんですね。


ミュージアム』の原作にあって映画で損なわれた要素もそういうところで、異常者は異常だから異常者なんであって、それが万が一普段は自分と同じことで笑って同じものを食べて、同じことに怒る人では困るのである。

普通と思われていた人が急に凶悪なことをやるよりは、普段から危なっかしい人がやる方がその行動に納得感があるし、必ずそうであればそういう思いに遭遇したくなければ日常からそういう人に近づかなければいいのだから、防ぎようがある。

しかし、現実にはそんなにわかりやすい人はむしろ少数で、本当に隣で事件が起きるかもしれないし、なんならその現場が自分の家にならないとも限らないのであって、それが何より怖いのである。

わかっていることは怖くない。

うまく乗り切れるか不安なだけで、漢字にすれば恐いの方になるのかな。

分からないから怖いのである。

人が理由を求めるのも、その分からなさが恐怖の要因だということがわかっているからだろう。

サイコスリラーの恐怖ってそういう曖昧な不気味さが何より重要だよね。

日本だとグロテスクなことに抵抗がない者をサイコと呼んだりするから、その辺がずれちゃったんだろうね。


それはともかく、人は生きていれば理由なんてものがいつでもついてくるわけではないことが誰しもわかっているだろう。

どうしてお腹が減るのかな、なんていう歌が昔からあるが、あの歌の中では結局その回答が得られたのか知らないが、理由を求めれば生きるためにはご飯を食べないといけなくて、その栄養を求めていることのサインとして腹が減るという現象になるのだ!などと言ってみることもできるが、では食の好みという話になると説明って、できるのかな。

こんな話なら別に害はないから誰も気にしないけど、それがもっと違う方向になると事情は変わってくるし、それが暴力性を帯びてくるほどそれは深刻だ。

それこそ『時計仕掛けのオレンジ』の主人公の暴力には理由なんてなかったし。

彼にとってはそれは正常で、それ以外のところについては正常者と呼ばれる人と変わらないのだから。

大なり小なり、ベクトルが違うにしても誰しもそういう理屈じゃない、理由が分からないものは持っていて、それこそフェチも異性の好みもなんでも一緒である。

そうであるからそうであるとしか言えないのだ。

「およそ語りうることは明晰に語りうる。語り得ないことについては人は沈黙せねばならない。」と言ったのは哲学者・ウィトゲンシュタインだが、そういうものは誰しも持っている(最もこの言葉はこういう文脈で言われたことではないし、そういうことを言いたいわけではないと思うけど)。


私は割とこういう人間の異常性というか、いわゆる正常な人には理解できないような人間性を描いたような映画とかを好んでみる傾向がある。

理由は私自身が何か理由がないと不安だからに他ならない。

好きな理由や嫌いな理由、ムカつく理由ややる気が出ない理由、何かにつけても自分の納得感が重要だから、こういうのをみて何かを感じようとしているのだろう。

いわゆるアクション大作なんて見ても面白いともなんとも思わないけど、人間のこういう闇と呼ばれるところについては、そういう書評をみるとつい興味がわく。

それは私の業なのだろう。

でも、そもそも人が生きているという一番根本的なことにも理由なんてないのだから、本来的には理由とか意味とか、そんなものがあると思う方がおかしいのかもしれないけどね。


こんな駄文の最後には『Saven』冒頭で流れていたこの曲を。

"Closer (Precursor)" Nine Inch Nails

タイトルも示唆的である。