音楽放談 pt.2

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さよなら〇〇 -たま

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年末になると毎年放送されているのが、ビートたけしテレビタックルからのスピンオフ的な番組、超常現象ファイルが好きで録画してみている。

私は残念ながらUFOとか霊とか、いわゆる超常現象に遭遇したことがない。

不思議な人間にはしばしば出会うが、いずれもただ狂った奴というだけである。

それはさておき、この手の話には常に肯定派、否定派があって、その2極対立のやりとりが番組としての面白さになっているんだけど、否定派は科学的などうのこうのという話を反論の論拠にする場合が多いんだけど、よく聴いているとあんまり科学的ではない理屈である場合が多いのが面白い。

一方の肯定派の人たちも、その存在を科学的な証明を求めているようで最後の最後はそこからは脱するような見解で終始していることが多くて、お互いの主張は決して交わらない。

大の大人がそんなことで大ゲンカしている様がいかにも滑稽ではあるが、でもそんな姿が実に人間味があっていいと思うのである。


私は超常現象だけでなく、昔は考古学とか、今でいえば宇宙物理学とかみたいな、科学的に最後まで立証しきれないような世界が好きである。

色々の分析によって分かってくること(これも分かっていると言えるかはわからないが)があるものの、現にそこにあるものではないので、どこまで行っても推定の域はでず、最後は確からしいというところまでしか行けないと思っている。

過去はもうここにはないし、宇宙の果てにたどり着くことはできない。

でも、ただ認識できないだけ、見えないだけで、多分現にあるものではあると思っている。

そこにどこまで迫れるのかが科学の面白いところで、もし死んで俗にいう魂みたいな姿で自由に動けるなら、私は早々に肉体を発って宇宙の果てを目指したいくらいだ。

行ったところで見る以外の選択肢は多分ないから、しばらく眺めてあとは成仏をするだろうけど。

しかし、仏様は地球の概念だから、そこまでいくと誰も連れ帰ってはくれないだろうか。

でも、もしそうした魂が存在するなら、似たような奴らがそこかしこにいるのかもしれないと思うと、それはそれで楽しいかもしれない。

そんなことを夢想するのも嫌いじゃないのである。


で、いわゆるオカルト現象も、例えば写真に写ったとかカメラで捉えたとか、そうでなくとも見たという人が特定の地域に限らずいるということは多分何かしらがあるのである。

それが世間で言われているUFOとかそういう類のものかどうかはわからないが、とにかくそういう現象が現にあるのは多分そうなんだろうと思う。

よく言われることだが、UFOなんかは体験しない人には永遠に信じることができない現象であるということ。

一度目撃した人は、その後何度も目撃する人もいるし、その後決して疑うことはないようだ。

人間には自分は正しいと思いたい気持ちが常にあるのでそれは当然だとは思うけど、見たことない人からすればやっぱり気持ち悪い感じは残るし、だったら証明してみろ!みたいな話にもなる。

そういう議論で面白いと思うのは、肯定派の人でも最後の最後は科学的な証明を恐れているようなきらいがあるところである。

例えばムーという老舗雑誌があるが、あの雑誌も序盤から中盤にかけては科学者的な人が出てくる訳だが、最後の詰めはなぜか超常現象研究家的な人が出てきて、生物学者とか物理学者ではないのである。

そこに投げればDNA鑑定とかでもっとわかりやすく現代科学の土俵で評価できるはずなのに、そうしない理由はなんなのか。


思うに、この手の話はある種の宗教と同じで、その手のことを信じている人たちにとってはそれが科学的に確かかどうかなど詰まる所は問題ではないのだろうと思う。

それこそこの番組でも出てきた河童のミイラについても、持ち主の人たちは多分科学的なDNA鑑定など望まないだろう。

彼等にとって大事なことは、そのミイラが本当に河童かどうかではなくて、そのおかげで自分たちが今日までちゃんとやってこれたという信心だという感じなのだ。

まして、もしなにかしらの調査をして、ただの動物の寄せ集めだという結果が出た瞬間に、何かしらの不利益が起こるのではないかと思っているところもあると思うんだよね。

私は科学的な話も大好きなだけど、本当に科学的な人は多分超常現象は否定しない気がする。

ただ、何より大事なことは、何はともあれそれで人生が楽しくなるなら、それをあえて否定する必要なんてないのではないかということだ。

やっぱり幸せな人生の方が幸せだし、何が幸せかは人それぞれなんだから、他人の人生に迷惑をかけない限りは何を信じてもいいし、どんな神を信仰しても構わないだろう。

ピテカントロプスになる日も近づいたんだよ。


最近の世の中はなんでもかんでも本当でないとダメだ!嘘つくな!作り物だ!と言って騒ぎ立てるけど、世の中の本当のことってなんだろうって話である。

大きな科学の世界だってわからないことの方が多いし、科学だって「こう説明するとうまく説明できる」という仮説の世界なのである。

だから、それよりうまく説明できる考え方が出てくれば、それが次の常識になるのだ。

ちなみに、かの有名な地動説についても、常識の世界では間違った理論だと言われているけど、科学的な視点でいえば間違っている訳ではない、という見方もあるらしい。

単に天動説の方がシンプルに話ができて、なおかつ説明できる範囲も広いからそっちの理論に乗っ取ろうか、となったというだけだという人もいるという。

ニュートン力学についても同様で、アインシュタイン的な力学の方が多くのことをその理論の中で説明できるからそっちの方が趨勢を極めているだけで、ニュートン力学自体が間違った学説だという訳ではないらしい。

自分の信じているものが急に壊れると、人はそれをなかなか受け入れられない。

だけど、自分の信じている世界を支えているものなんて所詮作られた常識でしかないかもしれない訳だ。

実はそれをみんななんとなく感じているから、余計に敏感になっているのかもしれないけどね。


ともあれ、今年で平成は終わる。

日本人なのでそこにノスタルジーも含めた感情を覚える訳だけど、世界からすればいつもと同じ新年だ。

殊更何かが終わる訳でも何かが始まる訳でもない。

たまたま何かが変わることはあるけど、それはただの偶然だ。

そこに対して何か意味を求めようとするのは宗教と同じである。

別にそれを否定するつもりなんて全くなし、その方が幸せになれるならそれでいいと思う。


世の中にはわからないことがたくさんだ。

毎日顔を合わせる人でも、家族でも、恋人でも、血を分けた子どもや親でも、本当に彼等をわかることはできない。

でも、私はそれが悪いことだとは思っていない。

わからないからわかろうとするし、それが大変だけど面白くもある。

世の中の謎が解明されないから、人生を退屈しないで済むしね。


とりあえず、日本では元号が変わることが何かの契機になるといいね。

今のような狭っ苦しい価値観が一度リセットされて、もう少し楽しい世の中になると嬉しいな。