音楽放談 pt.2

SEO強化をしていこう。

いれて欲しいと言われても ー操洋子

イメージ 1

突然だが問題です。

このトップ画は何に見えるでしょうか?

もはや説明するまでもなく有名な錯視画なのでご存知の人が多いと思うが、これはある心理テストとして有名なものである。

ロールシャッハテストと呼ばれるものの1つで、これが何に見えるかによってその人の心理状態がわかると言われているが、実際に科学的な根拠は特にないというのが定説であるらしい。

しかし、日本においてはこの手の心理テストはいまだに大人気だ。

血液型占いもそうだけど、何かしら類型化すと言うことを好む民族らしいのである。


それはともかく、この絵は若い女性に見えるか老婆に見えるかという2つと言われているのだけど、どっちに見えるにしろ一度そう見えるとそうとしか見えないというのが人間の不思議なところだ。

私は大学時代に認知心理学という分野を専攻していたんだけど、その中の一つで知覚心理学というのがあって、その学問の根本の一つが「人は客観的にものを捉えているわけではない」ということだった。

つまり、そこには一定の解釈や認知という主観的な要素が混じっており、そこにある事実を写し取っているわけではない、ということである。

例えば、カメラであればテーブルの脚が写っていなければそれはないのとある意味同じだけど、私たちはたんに隠れて見えていないだけで、そこに脚がないと認知する人はいないはずである。

それは当たり前すぎてピンと来ないかもしれないけど、見たままを事実、そこにあるものとしてだけとらえている訳ではないということを明快に示しており、面白いデモンストレーションだと当時思ったものだ。


そうした認知を支えているのはある種の思い込みだったり信念と呼ばれるような、得体の知れない心理的な作用だったりする。

先の作自画像もそうだし、日常の中で驚く理由は思っていたもの、想定したものとは違う結果が出てくるから驚くわけである。

そうした心理を利用したものは世の中にはたくさんあるが、それは今回の話ではない。


人間関係においても、厄介なのは常のこの思い込みである。

それは自己認知に対する思い込みもあるし、他者に対する思い込みもある。

わかりやすいものでいえば、ステレオタイプという奴だ。

これこれこういう人はこういう価値観を持っている、と思い込んでそれを当てはめて物事を判断してしまうことは誰に限らずよくあることである。

心理学的には、それはヒューリスティックな判断という言い方をするんだけど、それは悪いことではなくて、一つ一つの事象に対していちいち検証を重ねていくことは心理的に負荷が大きい、要するにしんどいと言える。

だから、自分の経験則の中からそうした類型化することで、考える時間を節約できるのである。

これを認知的資源の節約、というような言い方ができる。

しかし、これはこれで厄介で、考えることを放棄するその仕方な訳だから、それをされる当人からすれば「俺を私を類型化するんじゃねぇ」とオンリーワン的な思考で以って反論もしたくなるだろう。

もっとも、そうしたことを正義ヅラしていう人ほど、そうしたステレオタイプや類型化に積極だったりするのが世の常である。

ともあれ、人間というのは興味のない人に対してほど、そうして類型化して適当な枠組みに他人を当てはめたい生き物であると思う。


私はこの類型化にあたっては、割と当てはまらないケースが多いらしく、昔から多くの人に「よくわからない」「初めて出会うタイプ」ということを驚きと皮肉半ばで言われることが多かった。

言われる私にはどういうことかさっぱりわからなかったけど、人と同じなんて面白くないだろ、という価値観だった私には褒め言葉にも受け取れたものだ。

しかし、その価値観を育てすぎて「人と違わなければ価値がない」というところまで行ってしまったので、今はだいぶ苦労している。

そのため、人と同じでいいじゃないという価値観を一生懸命植え付けるという荒業に励む毎日だ。


それはともかく、日々暮らしていると「この人は一体どうしてこう思うのだろうか?」と不思議に思う人にしばしば出会う。

男女によらないし、年齢にもよらず、一定の確率で理解できない人には出会うのである。

対象は仕事への態度もそうだし、好き嫌いもそうだし、なんだっていいんだけど、それはひとえに私の排他的な価値観ゆえというところもあると思うけど、ただ私ももういい大人である。

これまでの人生の中でそれなりに経験を積む中で、多分これは一般的な価値観ではないだろうということくらいは心得ているつもりだ。

その自分なりの第3者的な視点で考えてみても、やっぱり理解できないぞという人はいるもので、そうした人にはどう接したらいいのか、とても迷うことがある。

私は特に偏屈なので余計にその手の問題に絡め取られやすいんだけど、そういう人に出会った時には頭が真っ白になることもある。

なぜそう思うのか、ちょっと俯瞰的に見れば明らかにおかしいだろうと思われそうなことでも、当人にとっては当たり前のことで、逆にお前さんなにいっちゃってんの?くらいの態度で来られることもあり、どうしたものかと頭を抱える訳である。


そんな事象の一つがストーカーだろう。

純愛という価値観が称揚されて久しいが、その最たる例がこのストーカーだろう。

ただ一人を執拗なまでに追い求め、それ以外のものは一切目に入らない。

愛が一方通行であることは認めず、ただ自分だけをみて欲しいと執心するその様は、やっぱりちょっと怖いよね。

こんなにも自分のことを愛してくれるのね!と喜ぶ人がいたらそれはそれで違う闇を抱えている可能性もあるわけで、その気持ちはやはり多くの人にはある種の異常性を持って捉えられている。

もっとも、ストーカーは端的な例にすぎないから、実際はもっとたくさんのクリざまが世の中にはあるわけだ。


このストーカーも、要するに思い込みによるものだし、認知の歪みという奴の一例だろう。

人は自分が思っている以上に世の中を主観的に見ている、という事実は忘れるべきではない。

それは私が常々思っていることでもあるんだけど、ただこれも行きすぎると自分すらも信用できないので幸せになれなくなるという効果も秘めているため難しいところもあるんだけど、それでも一定以上のそうした視点は社会生活においては必要不可欠だと思う。


長ったらしく抽象的なことを書いたけど、最近改めてそんなことを思う機会が多くてね。

人間関係において、他人同士が分かり合えると思うことは一種の幻想だと個人的には思っているんだけど、そう頑なに思っていること自体が一種の思い込みで、実は幻想ではなく事実分かり合えるかも知れないわけで、それができないのは自分だからであるだけ、という可能性もあるわけだ。

ガンダムでいうところのニュータイプ的なね。

つまるところ解決のすべはないし、解決策もないからそう思う人はそう思って生きるし、そう思わない人はそう思わないで生きていくだけ、という話だと思うけどね。


仮にどれだけ深く愛する相手であっても、相手が自分の期待するのと同じくらいに、同じ仕方で愛してくれるとは限らないのが世の常だ。

そこに適度な線を引けない限り、幸せにはきっとなれないんだろうな。