音楽放談 pt.2

SEO強化をしていこう。

小休止175「言葉は知性」

イメージ 1

 

私は自覚があるのだけど、かなり理屈っぽい話し方をする。
 
端的に表せることでもつい言葉を継ぎ足しすぎて冗長になってしまうことがままあるし、同僚やクライアントにも指摘されることがある。
 
私なりに冗長になってしまう理由はあって、特に仕事の場面では勘違いであったり意味の取り違い、あるいはメールなんかでは意味の行き違いがあってはいけないという思いからついあれこれと言葉を尽くしてしまうのだけど、得てして世の中の人はそんなに丹念には読まないので、結局伝わらないという結果に至ることも少なくない。
 
そんなときに思うのは、端的に本質をきちんと伝わる形で言葉にできる人は、本当にすごいなと羨ましくて仕方ない。
 
 
言葉というのは昔から学問の対象になっていて、言語学というズバリなものもあれば、哲学も言葉を使った学問の代表格である。
 
文学の世界はまさに言葉による芸術だし、音楽の歌詞だってそうである。
 
日常生活においても、言葉はとても重要で、意味内容以上にニュアンスだったり文脈だったり、あるいは誰にどんなタイミングで発せられるかによってもだいぶ具合が変わるものである。
 
同じ言葉でも、誰に言われたかで響き方が変わるというのは、誰しも経験のあることだろう。
 
私は昔から端折ったような言い方をすることが多く、それが原因で怒られることも多かったし、伝わらないな、なんて頭を抱えることもよくあった。
 
そんな反省を踏まえてああだこうだと付け加えるうちに、すっかり冗長な物言いになってしまったのはもはや因果としか言えないわけだが、ともあれせめてこちらの言いたいことを伝えられるように頑張っているつもりである。
 
 
さて、この言葉というのは世界を作る一番大事な要素とも言われている。
 
言葉で表現されて初めて認識されるのであって、言葉がない世界では何も存在しないとも言えるとか。
 
ここでいう言葉は必ずしも発声に限らず、概念的な意味である。
 
実際には世界はそれとして存在しているから、人間が喋ろうが喋るまいが存在しているわけだけど、理性と呼ばれるものが存在する世界においては、やっぱり言葉はとても重要なものである。
 
ある民族では、日本語でいる橙色を表す言葉がないため、日本では赤、紅、橙と区分けされるものでも、同じ言葉で表現されるという。
 
彼らに見えているのは違う色かと言えばそうではないと思うけど、彼らにとってはそれは同じ色な訳である。
 
それは誤差とかではなく、こういう感じの色を表すのは赤という言葉しかないから、そういう風に認識しているというだけの話である。
 
逆のことだってあるわけだから、どっちが良い悪いではなくて、言葉というのは世界の認知をする上でも大事だよね、という話である。
 
 
で、今回のテーマでもあるんだけど、この言葉を巧みに操ることができるのはやっぱり知性の現れだと言えると思う、ということである。
 
自分の見えている世界、感じている世界を、きちんと相手に伝わる形で表現できるということは、これは素晴らしい能力だし、知性がなければできない芸当である。
 
私もそんな存在に憧れるから、このブログで音楽についてあれこれと語ってみるわけだけど、どうしてもうまく伝える言葉が見つからない。
 
それは必ずしも音楽的な専門用語ではない。
 
そうじゃなくて、自分が感じた何かしらを誰でもそれと理解できるように言語化する作業で、それを考えながらこうして書いている。
 
音楽なんて楽しかったら良いんだよ!とかいう人もいるかもしれないが、そういうことではないのである。
 
俺、良いと思ったんだよね、なんてことじゃなくて、それがなんで良いと思ったのか、どこがいいと思ったのかを言語化したいのよ。
 
モチベーションは自己満足でもあるし、あるいは冒頭に触れたような端的にらわせるようになるための訓練でもある。
 
私が常々持っている価値観の一つが、言葉は知性ということでもあるから、その知性に対する憧れとして抱いているところもあるんだけどね。
 
別に高尚である必要もないし、一定以上のリテラシーを求めるものでもない。
 
誰が読んでもちゃんと伝わる表現であるということが大事なのである。
 
 
たまにテレビを見ていると、突拍子もない発言をして笑いを取っている人がいる。
 
おそらく彼らにしてみれば別に笑いを取りたいわけでもないだろうし、ただ一生懸命説明しようとしているだけなんだとは思う。
 
でも、その言語センスはしばした常識的な使い方を逸脱しているからぶっ飛んでいるし、それが滑稽に映るから笑いを誘うのだろうけど、私は一方で感心していたりする。
 
どんなに考えてもその表現は出てこないと思うからである。
 
伝わるか伝わらないかで言えば伝わらない類の表現だけど、その独特性はある種の芸術だと思うのだ。
 
私はそんなものにも憧れて、とにかく1センテンスでもつながりがあればアレコレと連想ゲームのように言葉を吐き出すことをたまにやるのだけど、やっぱり誰にも伝わらなくてがっかりするのである。
 
いやはや、言葉の表現というのは難しい世界だ。
 
語りつくせないことは、もはや沈黙しなくてはならない、といった人もあったが、だからこそ語れるものはいかにして語るか、それが面白くもあるわけで、こんな誰に読まれているともわからないブログをもう10年くらいやっているのも、背景にはそんな個人的な挑戦があったりする。
 
たまに過去の記事を読み返すにつけどうも成長の跡が見えないから、ここいらが限界値なのだろう。
 
 
ともあれ、引き続き私は言葉を巧みに操りたいので、その練習としてこうして駄文を認めていくのだろう。