音楽放談 pt.2

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小休止149「色褪せないでいるために」

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ここ最近毎年のようにレジェンドクラスのロックスターが亡くなっているが、多くは年齢によるところが多いのだけど、中には自殺というのもあって、それが2ヶ月立て続いたことで未だにそのことは方々で話題にあげられる。

1人はSoundgardenのクリス、もう1人はLinkn Parkのチェスターだ。

クリスはツアーの真っ最中に、チェスターも新作リリース間も無くにそれぞれ自ら命を経った。

世間的には二人とも成功者だし、これだけ世界的にファンも抱えていて、目の前にもやることがたくさんある中で急にいなくなったため、当然世間は驚いた。

私はどちらのバンドもファンではなかったけど、やっぱりびっくりしたし、なんともいえない気持ちになった。

私は90年代のグランジオルタナ世代の音楽は好きで未だに聞いているし、Linkin なんかは世代的にはど真ん中で、友人が好きなのでたまに音源も借りていたから、聴かないまでもなんでだろうと思ったものだ。

それが今年の6月だったと思うけど、未だにタワレコでは追悼的な棚を作っているし、ロッキンオンでも何ヶ月もずっとやっている。

忘れない的な主旨は否定しないけど、それが商業に乗った瞬間にどうしても腑に落ちなさを拭えない。


それに絡んでいろんな記事も出てくるわけだけど、その中の論旨として多くなるのは「ロックスターの悲劇」といった物語だろう。

今日もそんなような記事が出ていて、そこでは薬物依存に苦しんだ、なんていうことをタイトルにしつつ、結局中身もないしこのライターは多分そこに名を挙げた人たちの音楽なんて聞いたことないだろうと思った。

さも悲劇の物語として語るわけだけど、本当にそうだろうか。

昔はそうした自殺したロックミュージシャンに興味をもったのは否定しないけど、今同じものを読んでもどこかそら寒いというか、それって当人にとってどれだけ本質なのだろうかと思うわけだ。


先のウェブ記事はどうか知らないが、そういった記事を書くライターは大半はそのアーティストに何かしらの思い入れはあるだろうと思う。

過去だろうがなんだろうか、人の死を題材にするのになんの感情移入もなしに描けるのならそれはそれでどうかと思うし、商業ベースにも乗らないだろう。

一定のリアリティをはらんでいるから面白いと思うし、読む側も興味を持つだろう。

もちろんテクニックは否定しないし、小説家でもなければ必ずしもそんなものを求めないこともあるだろうから、こちらとしてはそれを信じたいという思いもあるんだけどね。

ともあれ、じゃあその人たちが自分たちの文章を通じて伝えたいことってなんだろうという話で言えば、自殺はいけないとか薬はダメだとか、そんなことはどうでもよくて、たんに忘れないでねという気持ちが大きいのかもしれないと思う。

忘れさせないためには淡々とした描写では響かないかもしれないから、そこに物語を作らないといけない。

確実に死が結末に待っているなら、それは一般的には悲劇として結実するだろうし、好意的な目で見ればその背景を純粋さとか人間としての弱さとか、そういうところに主題を求めるのはさもありなんでもある。

それは否定しないし、事実弱さとして説明されうる事象もたくさんあるだろう。

だけど、全部が全部そうなのだろうか。


私は自分の感性って結構冷たいな、と自分で思う時がたまにあるんだけど、自分が好きなアーティストであれば死んでしまって、もう新しい曲が聴けない、ライブで歌声を聴けないといったことは当然悲しい。

トレントが死んだ、と聞いたら私はかなり悲しいし、しばらく立ち直れないかもしれない。

でも、それは私個人の問題であって、別に誰かにわかって欲しいとも思わないし、同じように感死んでいる人がいることはなんの救いにもならない。

一方であまり関心のないアーティストについては、自殺を選んだということには痛ましい思いはする。

だけど、これだけはたから見ればうまくいっているように見えても必ずしも人は見たされるばかりではない、という現実の方が興味だったりする。

あるいは過去の人とかね。

Joy Divisionの音楽は好きだし、その本質の一つでもあったイアンについては、人間的にどういう人だったのかとても興味があったし、色々の本や諸説を見るにつけ彼の死んだ理由が推測されると、そこに共感的に思う部分もあるしやっぱり理解できないところもあるけど、別に悲劇の物語だとは思わない。

カートにしても、彼は自殺・他殺の両方の説が言われており未だに解明はされていないけど、本当に自殺だったらやっぱり悲劇とは受け取らない。

本当に悲劇だと感じるのは、やりたいこともたくさんあって、もっと音楽も作りたいと思っている人が不慮の事故とか病気で亡くなってしまう、その時だけである。

なぜかって、それはその人が選んだ道でないからである。

仮に自殺でも、そこに至る過程で生きていること自体が苦痛だと思うような体験については話は違うけど、そういうケースばかりでもないしね。

この手の文章の中でも、幼少期のトラウマをどうしても克服しきれなかった、みたいな話は別だ。

でも、大半はどこか外から当てはめた典型の中に収めて、その目次に無理やり1ページ追加しようとするようなところがあって、それは違うだろうと思ってしまう。


そうはいっても、世の中的にはそうした物語の方が好まれる傾向があるみたいで、実際その手の記事のコメントにはそれぞれの人の思い出が思い思いに花開いている。

話は少し変わるけど、葬式ってなんのためにやるのかといえば、最も重要な意味は生きている側が死んだものの死を受け入れるためだと思っている。

もちろん死んだ当人の生きてきた時間に対する敬意を表すという意味も否定しないけど、重要なことはやっぱり葬式をやる生きている側である。

私は実家から遠く離れているから、1年で1回帰るかどうかだし、おじいさんおばあさんの家だとさらにその頻度は下がる。

だから、日常的に会わないことが普通だし、電話もしなければどうしているかもわからないのが普通なのだ。

そのせいか、数年前に父方の婆さんが亡くなった時も、遺体を見てなお実感がわかなかった。

不思議な感じがずっとしていた。

だけど、田舎なので葬式の後に列席者に飯を振る舞うというのが普通なのだけど、そこで婆さんの友人衆の話を聞いている中で、なんとなく死んだという事実を受け入れるようなところがあった。

とはいえ、未だになんだかふわふわしているんだけどね。


若い女の子に限らず、ミュージシャンでも役者でも、そういう芸能の世界で生きている人たちは、そうでない世界から見ればすべからくアイドルという存在である。

近くて遠い存在とでも言おうか、そういう側面てあると思うんだけど、そのアイドルがこの世からいなくなった時ってにわかには信じがたいものである。

それを受け入れるための作業の一つがそうした軽薄でもいいから何かしらの物語にしてしまうことかもしれないし、それをやることでずっとアイドルとして存在できるかもしれないね。

当人が望む望まないは別にして、それを受け入れる側の問題である。

その意味ではそれぞれがそれぞれに納得する形で収めていけばいいんだろうけどね。


でも、なんで私はそれが腹立たしいんだろうっていったら、やっぱりそれを書いているやつ、語る口が本質的にそんなことには興味がなくて、ただ商売が好きなだけにしか思えないからかもしれない。

あるいは、私自身が持っているあり方とそこで紹介されるあり方があまりに違うことで、私の中のその人に対する思いとかを踏みにじられるような気持ちにでもなるのかもしれないね。

そう考えると、私も結局自分の思い描く通りのあり方であって欲しいと願っている自分勝手なものでしかないともいえるね。

やっぱり人が死んだ時には、ああだこうだ言わずに静かに黙祷を捧げるのが、一番正しいあり方のような気もする。

まあ、そう考える人ばかりではないからそうはなっていないんだと思うけど。

ともあれ、人の死を商売道具にするのは、やっぱり気に入らないなと思ってしまうわけだ。