一寸先は闇、という言葉があるが、昔の人は本当に上手いこと言ったものだと感心する。
私はことわざとか、ちょっと違うけど言葉遊びって大好きで、上手いこと言うなぁ、ということにしばしば感度する。
日常生活でもそういうことを言おうとしてちょいちょい鬱陶しがられるが、言葉で遊ぶためにはやはりある程度以上の知識や知恵が必要だし、それを伝えるためには前提が必要である。
大学時代の友人と話すときには結構それが通じるけど、会社では必ずしもそうではない。
単純な教育水準みたいな話だけではなくて、趣味とか趣向によっても変わるから難しいところはあるんだけど、だからこそ通じたときにはとても楽しい。
私は無駄にあれこれと引用するから、余計伝わりにくいし、世間的にいう親父ギャグと紙一重ではあるが、いずれにせよ言葉遊びは楽しいのである。
言葉遊びとは違うけど、およそ文学というものも、その背景とか描かれている世界とか、そういうものが自分の中ではっきりとみて取れたときに物凄く感動することがある。
いわゆる詩というのはその端的な表現の一つだと思うけど、限られた観念的な言葉の中でそれを描くというのは、やっぱりすごいなと思う。
難しいのは、言葉そのものの意味が強いので、その表面的な言葉の意味にしばしば縛られてしまうし、それゆえに向こう側がみえにくいところもある。
残念ながら私にはそんな詩的な才能はないんだけど、ともあれせめてダジャレレベルでも言葉遊びを楽しむわけだ。
さて、そんな言葉は音楽の世界でもとても重要な要素だ。
特に日本では何かにつけ歌ありき、海外では「イエェ~!君とヤリたいぜ!」みたいな歌が平気でNo.1になっているわけだが、日本というのはそれに比べるとちゃんと意味のある歌詞を歌っている場合が多い。
その意味の深さとかに程度の差はあれど、さすがに「イエェ~!君とヤリたいぜ!」と言っているだけの歌では売れないだろう。
文化の違いもあるだろうが、音はあくまでその言葉を盛り上げるための存在として日本の歌謡曲は発展してきたからだろう。
最近では海外の人が日本の歌謡曲にハマるということも少なくないようだが、そういうこともあるそうである。
我々にとってはそれが当然だけど、やっぱりちゃんと考えている歌詞って世界の誰にとっても面白いものなんだろう。
そんな日本の音楽の中で私が「この歌詞は好きだな」といつも感じるのはなんども登場しているアナログフィッシュだ。
今年中には新譜も出ることが発表されて、あとは詳細な日時だけだ。
であったのは数年前だけど、今ではマイフェイバリットの一つである。
それぞれに表現が異なるからそれぞれの良さがあって、幸いなことに私はどちらにも共感できるところがあるからこんなに好きなんだけど、特に下岡さんという人の書く歌詞についてはある種の心理を突いているようなものが多く、聞くたびに唸ることが多い。
感動できる歌詞というのは人によって様々だろうけど、私にとってはそんな皮肉っぽさすらあるものでも、すごいなと思うのである。
彼の書いた歌詞についても好きなものは多くて、様々な場面に応じて思い出されるものは違う。
で、最近仕事なんかの場面でよく思い出すのが"Nightfever"という曲。
曲は極めてミニマルだし、大きく展開もしない。
淡々とした中に静かな熱量を感じさせる曲であるが、歌詞はひたすら右と左、どっちなんだ?ということえお問い続けるような内容だ。
中でも印象的なラインは、
CPUは誰も愛さない
確率は今を知らない時間は待ってはくれない他人は変わってはくれないセンターラインはどこにあるそしてそのどちら側をどう歩く
というラインだ。
数年前からの私の、特に仕事における価値観が他ならぬ「他人は変わらない」というものだ。
撮り方によっては、自分が何をするかだというようなポジティブなニュアンスがある一方で、所詮自分の外側の環境は変化しないから、それに対して自分がどう合わせていくかという意味合いもある。
根本は、他人(自分の外側)に期待するんじゃなくて、お前はどうするんだ?ということだと思うけど、私の頭の中に流れる時は愚痴っぽいモヤモヤが頭に浮かんだ時なんだけどね。
それでも、自分が動いたことで他人が変わってくれる瞬間は確かにあるから、せめてそれに期待しているというのも実際なんだけどね。
だけど、根本は他人は変わってはくれないし、時間は待ってはくれない。
とはいえ、このラインの一番の肝は確率は今を知らない、というラインだと思っているんだけどね。
言葉の力は偉大だ。
だけど、その力が常に届くとは限らないし、その力は発信する人間やその時の文脈に依存するところもある。
それが常に悩ましい問題だ。