音楽放談 pt.2

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思い出の意味 -坂本慎太郎

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この間何人かで話をしている時に、ある人が私のことを少し紹介してくれるような仕方として「一人でフジロック行くくらい音楽が好き」みたいなことを言われた。

この文句、フジロックのところをフェスに置き換える形で何度かされた事がある。

私は音楽が好きだ、というのは会社の人にもそこそこ知られているわけだが、そのエピソードとして言われるわけだが、それに対する反応はだいたい同じで「一人で行くの?(驚き)」「さみしくない?(訝しげ)」といった2択に大体収斂される。

毎度この反応の意味がわからないのだけど、なんで一人で行く事がそんなに驚きなのか、なんで好きなことをやりに行くのに寂しいと思うのか。

フェス=友達を酒飲んで盛り上がるところ、という認知が多いのかもしれないが、私は見たいアーティスト、聴きたい音楽があるから行くのであって、ライブがメインである。

もちろん人といったときにあのライブはよかった、あの曲が聴けてよかったと話し合うことの楽しさも理解しているけど、別になくてもそれはそれで構わないタイプである。

ちなみにライブへ行った時や、新しい音楽を手に入れたときにこうしてブログに書いているんだけど、この目的はいい音楽を少しでも多くの人に聞いてほしいという思いはもちろんあるんだけど、実は一番の目的は自分なりに言語化するというところにあって、つまるところただの自己満足以外の何物でもない。

自分の書いた記事をしばしば読み直すんだけど、自分の中でよくできたと思うものもあれば、全然よくないなと思うものもたくさんあって、できれば削除して書き直したいと思うものもあって、しかし全部残しておくことでそれはそれでアーカイブとして楽しむことにしている。

昔描いたアルバムについても、改めて書いてみるのも面白いだろう。

いずれにせよ、音楽を聴くにしても絵を見るにしても映画を見るにしても、基本的には自分のなかでああでもないこうでもないと考えるのが楽しいのである。

プラスして、自分の中でまとまったそれらを誰かに発表したい気持ちはあるのは、確かなんだけどね。


で、この間ある子にされたツッコミでハタとなるほどと思ったんだけど、「シェアしたいとか思わないんですか?」というもの。

それこそインスタみたいなSNS的なツールで持っていろんな写真をあげている人はたくさんいるんだけど、何かやったら写真を撮ってアップ、何か食べたら、どこか行ったら、誰かと会ったらいちいち写真を撮ってアップしているわけだけど、あれは何かをシェアしているらしいのだ。

私はその手のSNSってあんまり使わないんだけど、このブログも記事を書いたら実はツイッターでばらまいたりしている。

シェアという感覚はなかったんだけど、要するに自分の考えていることを多くの人に見せてやろうという自己顕示欲だし、できれば賞賛されたいという承認欲求に他ならないわけである。

それをどういうタイミングでやるかの違いはあれ、そのシェアするという事が冒頭で出会った驚きたちの正体であるらしい。


昔何かほんで読んだ気がしていたんだけど、その後あるアーティストの歌詞にも登場していたんだけど、人のその人を規定するものは記憶であるという話。

一口に記憶といっても実はいくつかの種類があると言われていて、いわゆる一般知識として分類される記憶と、人によって異なる文脈的な記憶(エピソード記憶)というような種類に分かれていて、いわゆる記憶喪失において失われるのは後者であると言われている。

それぞれ何が違うかといえば、何に立脚しているからだろう。

一般知識は個人の人生に関係なく一般的なものとして参照点がたくさんあるのに対して、エピソード記憶はその人に固有のものなので、参照点はその人の中にしかない。

それを補完してくれるのは自分の身近にいる他者なわけである。

SNSの広がりは、そういう他者からの補完も助けてくれる、あるいはかつては他者がしていたそういう役割をしてくれているのかもしれないね。


今書いていてふと思い出したんだけど、私はよく「自分を持ってるよね」と言われる事が多かった。

当時全く意味がわからなかった。

自分を持ってない人ってどういう状態なんだろうという事が不思議で仕方なかったんだけど、ひょっとしたらそうした補完的な存在を求めなくても平気な顔して生きているように見えたということかもしれないね。

昔から何かを言っても「よくわかんない」と言われる事の方が多かったので、私の場合は他人から理解されることを諦めているだけなんだけどね。

ともあれ、そうした記憶や記憶を媒介するものって、やっぱり生きて行く上ではある種の人としての存在を支えるものでもあると思うから、そうすると単に楽しかったから話したいという欲求の外に自己を証明する手段してのシェアというのがあるかもしれないね。


私は最近昔の記憶がどんどん曖昧になっていて、小学校の頃の思い出ってあんまり残っていない。

なんなら中学生の頃の記憶も、残っていても現実味がなくてなんだか霞の向こう側にあるような形で頭の中に浮かんでくる。

一方でなぜかわからないけど、断片的にはやたら鮮明に覚えているものもあるわけだが、その境目がなんの脈絡もないのである。

多分何かのきっかけがあると、怒涛のように思い出す事ができて、その際には微に入り細に入り思い出す事ができて、うまくすればその時の会話まで思い出せることもある。

我ながら素晴らしい記憶力だと思うけど、それは全て文脈に紐づいているのである。

しかし、最近本当に人の名前が思い出せなくてね。

まずいなと思うので、思い出の補完をしてくれる装置をそろそろ見つけておかないと、今よりもっと歳をとったら多分何も記憶できない気が最近している。

気をつけよう。


ところで、この記事のタイトルとトップ画像、曲の動画を載せているが、結局最後まで触れなかった。

曲からインスパイアされたアウトプットがこれだ、ということにしておこう。

坂本慎太郎 ”思い出が消えて行く”