音楽放談 pt.2

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それでも俺は ―頭脳警察セカンド

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日本人は静かな民族である、というのはよく聴く話。

ライヴでも日本人はじっくりと(あるいは単なる無反応もあろうが)聴こうとするため、海外アーティストなどは初めて日本でライヴをやると、その光景にすごく不安になるそうだ。

それになれると、すごく真剣に聴いてくれているということがわかって、うれしくなるんだとか。

海外ではライヴは暴れるところであり、酒を飲みマッチョ主義的に力を誇示するようなものらしい。

たしかに、外人さんがいるときはやたら凄まじいことになる。

そういう連中に苦言を呈するアーティストも結構いて、それはすごくうれしいことである。


それはともかく、欧米や他のアジアの国においても、政治的な問題などに直面すると、すぐにデモをする向きがある。

すぐ、てわけでもないだろうが、その活動は極めて活発で、ときにやり過ぎだろうと言うくらいヒートアップしてしまう人もあるようだ。

もっともメディアがそうした姿ばかりを報道するから、そういうイメージを持ってしまうだけだろうが。

実際は彼らは民主主義というイデオロギーにおいては極めて健全であると言える。

政治家はあくまで代議士であって、国民に委託されて政治をしているに過ぎない。

そこで粗相なり悪さをすれば、何してけつかる!と国民が怒るのは当然である。

しかし、日本人の多くはこうした行動に出ることはない。

それこそ春闘ストライキなどはものすごい勢いで大行進するくせに、この温度差はなんだろうか。


答えは簡単で、要するに自分の生活に即結びつく事柄については声を上げようとするが、そう出ない場合にはさして興味はないのだろう。

それこそ、メディアが「こんなことしているんですよ~」なんて言わない限りは。

もっとも、こういうストなんかのときに、そこに参加している連中のあの顔付きはなんだろうか。

怒っているといると言うよりは、祭りを楽しむような風情である。

それだけ日本の政治家はうまくやってきたと言うことかも知れないし、あるいは適材適所のような考え方が国民性として根付いているのかもしれないね。

専門家じゃねえから、オラわからねぇ、てなもので。

さすがに最近ではかなり過激な活動をする人もいるようだが、それでも尚日本人は顔の見えるところでは声を出そうとはしないかな。


そんな日本人も、戦後復興間もない頃にはそれはそれは激しい闘争を繰り広げていたらしい。

学生運動、なんていわれて、大学なんかでもヴァリケードが張られたりして、本当にすごかったみたいね。

今でもその名残のような集団は脈々といるようである(自分の大学でも、「成田空港云々」という張り紙がしばしば貼ってあった)が、もはや彼らは右翼というような類いとしてみられているだろう。

あの街宣車は怖いよね。


それはともかく、国民がきちんと政府を見守る風土があってこそ民主主義と言うものは生きてくるものであろう。

そういう意味では、日本はかなり変わった国なんじゃないかと思う。

社会科の授業では、日本は自由の国です、という教育がなされ、その自由の中でたくさんお金を稼ぎましょう、ということが教え込まれる訳である。

やっぱり教育って大事だよね。

こういう傾向は音楽にも現れてくる。

殊にロックが何故若者の文化として定着したかと言えば、そういう側面が何より強いはずである。

従って、反抗の音楽と呼ばれた訳である。

しかし、昨今に至ってはもはやロックと言う言葉は形骸化している。

なんだかよくわからないが、楽器もってバンド組んで、みんなでワイワイやり始めたら、精神性などさておいて、取り合えずはロックとなってしまう。

これは日本に限った話ではなく、何故にパンクが現れたか、何故にオルタナというムーブメントが起こったか、それは一重にロックがロックであるためである。

もちろん本質的な意味でのね。

そうして新しい秩序が生まれ、それはまた別の秩序に淘汰される。

安定と混沌を行ったり来たりするのがロックに限らず人間社会というものである。


それにしても、日本の流行歌ではその種の曲が隆盛を極めることは、ほとんど皆無に等しい。

どれも浅薄な感情を言葉を変えてなぞるだけで、面白みなど欠片もない。

まあ、逆に面白いけど。

最近は特にそれが顕著で、かつてよりも明らかに精神年齢が下がっている印象がある。

全部とは言わないけど、よく耳にするものは概してそうである。

アンダーグランドに行けば、今度は翻ってメチャクチャディープな世界らしいし、そこの中間点のような存在はあまりいない気がする。

最近はかなり若手バンドもがんばっているんだけど、でもどこか小僧めいて聞こえてしまうところがあるんだよね。

でも、勢いのあるバンドがたくさん出てきているのは良いことだよね。


と、すっかり本題から外れてしまったが、そんな現代とはおよそ相容れぬバンドがかつてはいた、というより今もバリバリの現役なんだけど。

昨年は夏フェス(しかもロッキンオンフェス)にも出ていたのである。

日本語ロックの先駆者であり、また日本のパンクの先駆者でもある頭脳警察である。

こんなにごつごつした奴らはそうはいない。

日本語ロックと言えば、もう一人の雄はっぴいえんどがいる訳であるが、彼らはポップシーンに多大なる影響を与えた一方で、頭脳はもっと裏の方で闘争という部分で影響を与えている。

今日フォロワーと呼べる存在はいないと思うが、それはもちろん時代性もあるが、むしろ彼らの精神性を模倣できる奴がいないのだろう。


彼らの曲は極めてシンプルで、ポップですらある。

しかし、なによりそこにのせられるメッセージがあまりにも強い攻撃力を持っている。

学生運動をモチーフにした初期3作は特にそれが顕著である。

1stは発売前に発禁処分をくらい、つづく2ndでは発売はされたがまもなく回収。

たしか3rdも同じような憂き目にあっている。

ちなみに1stのときは、住所と名前を書く欄があるのだが、これは当時発売できなかったレコードを希望者に直接郵送するためのものであったとか。

まさにDIY、彼らがパンクと呼ばれる所以の一つである。


私が彼らを初めて聴いたのが、高2の冬から季節が春に変わろうとしていたその時期であった。

最初に買ったのは2nd。

”銃をとれ”、”さよなら世界夫人よ””コミック雑誌なんか要らない”などなど、彼らの代表曲も収録された日本語ロックの名盤の一つである。

ギターとパーカッションを基本編成としつつ、このアルバムではスタジオ盤とあってきちんとしたバンド形態での演奏が聴ける。

なんだかよくわからん迫力に当時は当てられて、やたら聴いていたな。

すでにその頃は精神的な荒み方が著しかったので、こういう奴が本当に来たんですよ。

過激な言葉の裏側にすごく前向きな意思を感じつつ、現状に対するやるせなさなんかもにじみ出てくるような人間味というかな、それがすごくリアルに感じられたのである。

もちろん自分は右翼的な発想はないし、学生運動だって全然知らなかった。

それでも、そこにある熱量はある種の普遍性を持つのであろう。


このアルバムにおいて、当時の自分の心を一番掴んだのは、そうした闘争の歌ではなくあがきながらも必死に生きていくと言う”それでも俺は”という曲である。

8分にも及ぶ長尺であり、アルバム中でも他の曲とムードも一線を画す。

叙情的で、やり場のない怒りや、周囲への苛立、同時に慕情、不安や焦燥、そういった感情が粗暴な言葉に込められいて、当時は本当に泣きそうになりながら聴いていたな。

「それでも、俺は求め続ける。何かを、何かを」という歌詞がすごくね。

自分は一生懸命やっているだけなんだけど、どうも周りの見る目は思っているような評価をくれない。

世間にはびこる正義という名の猿ぐつわで、言いたいことも言えない。

ある種の望ましさの中で窒息しそうになるその感覚、それでも生きていくしかないという決意。

この曲は、10代という時代に対して圧倒的な普遍性を持っていると思う。

どうも息苦しい、なんて思っている高校生なんかは、とりあえず聴いてみてほしい1曲だね。

君は間違ってない、君はそのままでいいんだよ、なんていうまやかしの言葉よりもよほど勇気づけてくれる曲である。


彼らは総じて社会というものを批判している。

それ故に日本パンクの始祖とも言われる訳である。

”いとこの結婚式”なんてのは最高だね。

あるいは恋愛模様についても唄われる曲があるが、タイトルは”お前と別れたい”。

愛のない見せかけの恋人同士の間にある倦怠感というか、そういう感情が独特なタッチで描かれる。

「お前のはだけた胸がまともに見られない」という冒頭からして、イカすね。


と、まあアルバムについてはあんまり書けなかったけど、こいつらはかっこいい。

日本人にとってロックであるためには、やはり説得力のある日本語で唄われなくては行けないのである。

彼らの精神性も相まって、これほどの個性と説得力を持つものもそうはいまい。

かなり濃いが、是非聴いてみてほしいバンドである。