音楽放談 pt.2

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わからないものはわからないものとして -ゆらゆら帝国


ゆらゆら帝国で考え中 MV

 

一昨日と昨日と、続けて美術館へ。

 

一昨日は日本画、昨日は浮世絵である。

 

昨年から日本の美術が面白くなってよく出かけているんだけど、やはり面白いなと思っているわけだ。

 

何が面白いかといえば、まず日本画については引き算の美学というか、西洋画であれば描かれるはずの背景がなく、写実的でありながらどこか浮世離れしているような感じが良い。

 

わかりやすいイメージは掛け軸である。

 

昔はさっぱりわからなかったが、今はこちらの方が見ていて落ち着くし、なんだかんだよく見ている気がする。

 

昨日は上村松園という女性画家の企画展に行ったんだけど、美人画で有名だそうな。 

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先日も鏑木清方というこれまた美人画で有名な人の絵を観に行ったんだけど、上村さんはちょくちょく悪い顔した女性を描いているのが印象的であった。

 

まぁ、私がそう思っただけでそういうわけではないのかもしれないが、いわゆる色目を使っている時の目つきが怖いのだが、これまで見ていた絵では艶っぽさが描かれているのに、この違いはなんだろうかと思うわけである。

 

女性的な視点というのはこういうところなのかな、なんて思いながら堪能しました。

 

そして今日は浮世絵、こちらも言い方はなんだか今で言う一コママンガみたいな面白さと、とにかく派手で生き生きとした構図なんかに面白さがある。

 

今回は歌麿から写楽葛飾北斎歌川広重国芳という有名作家のものを一堂に集めており、かなりのボリュームであった。

 

中でも写楽は有名な大首絵だけでなく様々なものが見れて面白かったな。

 

また広重はなんとも言えないユーモアがあって、見ていて笑えてくる。

 

一体どういう発想なのかとつくづく感心するのである。 

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北斎は色々実験的にというか、絵画的なアプローチもたくさん話あるのかなと思いつつ、奇人と言われる一面があるにせよ、基本的にはストイックな人だったのかなと思う。

 

ついまた図録も買ってしまった。

 

 

絵を見るのが好きだというと、多くの場合なんだか高尚な趣味かのように言われるのだけど、それが不思議で仕方ない。

 

私に取っては好きな食べ物や好きな音楽と同じで、好きな視覚情報なだけである。

 

こういうところでエンタメというものの意味を図らずも考えるわけだが、いわゆる分かりやすさというものにも関連してくるかなという気がする。

 

知り合いでエンタメ的な仕事している人がいるんだけど、彼女にしてみると絵画は良さがさっぱりわからないというし、好きなことを聞いてもいわゆるわかりやすいエンタメ的なものを挙げることが多い。

 

感性という言葉の使い方は難しいところはあるが、彼女がその辺に疎いかといえばそんなことはないようで、単に好みの話であるようだ。

 

じゃあわかりやすいエンタメってなんだというと、平たくいえば楽しむべきポイントが明示されているかどうかではないだろうか。

 

エンタの神様というテレビ番組があって、いろんな批判を浴びつつも今でも特番が年に数回放送されている。

 

あの番組の特徴が、なんと芸人のネタのセリフを全てテロップで出すのである。

 

漫才でもコントでも、笑いを産むのも内容は言わずもがなだがこれまた間が重要だったりするわけで、テロップにはその間がない。

 

しかも、ポイントになるところを文字色変えたりするから「ここがボケですよ」みたいなことが字面として明示されているわけである。

 

これが無粋なわけだが、わかりやすいといえばわかりやすい。

 

 

音楽においては、歌謡曲には明確なサビ、つまり印象的で盛り上がりやすいメロディを載せたところが確実に存在していて、それが染み付いている人にとってはサビのない音楽はどう楽しんでいいのかわからないらしいのだ。

 

 

ここで盛り上がるよ、ここでみんなで振り付けするよ、みたいなアーティストがやっぱり売れているわけで、それはそれで悪いとは言わないけどなんだか寂しい気持ちになることもある。

 

こういうのは映画でもなんでも同じだし、絵画でも同じで、シンプルに綺麗だと思える絵は人気になる。

 

それに、人は自分のよくわからないものには抵抗感を覚える習性があるので、よくわからないとなるともう見ようともしない人は少なくない。

 

ましてこんなに情報過多な世の中であるから、ぱっと見てわからないものはその一瞬を通り過ぎたらもう見向きもされないわけである。

 

そんなことないよ!いいものであればちゃんと注目されるよ、などという無垢なことを真顔で言う人が結構いるが、本当にそんなことないから。

 

大体いい悪いって言うのは何を以って判断するかの話もあるから、彼に取っていいものであれば注目するという意味以上にはならないだろう。

 

 

しかし、是非持って欲しい価値観としては、わからないものをわからないものとして受容する態度である。

 

この間誰かのインタビューか記事で読んで珍しく共感したのだけど、わからないから受け入れられないというのはそんなこともなくて、わからないものをなぜわからないのか、何がわからないのか、なんていう掘り下げ方をすることも結構面白いのである。

 

その対岸にはわかるものがあるから、そこを対比させる中で見えてくるものが確かにあって、それが自分の価値観だったり感性だったりするのではないだろうか。

 

私が音楽を聴くにしろ絵を見るにしろ映画を見るにしろ、何が面白いかってそうして自分を向う側に透かしてみるようなところである。

 

もちろんその瞬間考えてるのは、これって何を描いたんだろう、何が言いたいんだろうという作者の意図みたいなものであるわけだが、本人に聞いてみるわけでもなければ、それは自分が何を受け取ったのかと言う話になるわけだ。

 

しかし、そう考えるとこういう内省的な楽しみ方をするやつというのは、たんに自分のことにしか興味のない人なのかもしれないと思うわけだ。

 

先の子について考えると、彼女は自分の外側の方が興味の比率が大きいのかなと思う。

 

彼女に限らずそういう人は何人か知っているが、得てして自分が何者かなんてことに興味はなく、自分が何をしたいかというところに興味があるように思われる。

 

そういうところに価値観の差異を見るよね。

 

 

と、すっかり話が散らかりすぎたけど、ともあれ言いたいことはせっかく何かの芸術に触れるのであれば、ちょっと掘り下げて見て欲しいよね、というだけである。

 

訳がわからないと思ったならそのまま受け入れておくと、自分自身の受容性自体が広がるし、結果としてストレスも少なくなる、のではないだろうか。

 

これからはますます多様性の時代である。

 

理解できないことの方が圧倒的に多いわけなので、それはそれとして受け入れていきたいね。