全くもって暗いニュースが今年は多いですね。
なんでこの人が?ていう風に思ってしまうんだけど、きっとその人にはその人の理由があって、それは誰にもわからないだろう。
恋人がいようが友達がいようが子供がいようが誰がいようが、結局のところ本質的には孤独な人は孤独なんじゃないだろうか。
人は、というか、関係性が出来上がっていくほど、この人にはこれはいえない、ということも増えてくる。
それは信頼していないとかそういうことじゃなくて、気遣いの裏返しということもあるし、むしろなんでも話せないのは信頼してない証拠なんていう自己中心的な人も少なくないから、デリケートな人にとってはしんどいことの方が多いだろう。
まあ、実際のことはわからないけどね。
こういうのを見ると、不意に頭の中で流れてくる曲の一つがMonobrightの"涙色フラストレーション"という曲。
もう10年以上前の解散したバンドの曲だけど、彼らの曲の中でも変わり種といえるだろう。
文化系の開き直りという感じのはっちゃけた歌詞の曲が印象的だが、この曲はかなり重たい歌詞だ。
歌詞に登場する少女は、多分もうこの世にいなくて、そんな彼女を遠くでみて心配している誰かが主人公だ。
でも、彼も結局何もしてなかったんだろうか。
ただ見ているだけで、だけどもしちゃんと出会う機会があったら、ひょっとしたら救えたのかもしれないとか、そんなことを思いふけるような印象だ。
幸せを知らない一人の少女 生きるのは苦痛
どうやって死のうかと悩んだ
回りは彼女を必要無いだけに 彼女が気になっていた
という話から始まるのだけど、サビが悲痛な叫びにも聞こえる。
あの夢とどこかで出会っていたら
私、私でいて いいの?
誰か答えて
存在に気付くだけでいい」と、
彼女はなき今も考えているだろうか?
結局これも主人公の妄想みたいなものなんだろうけど、ここの「なき」は、泣きなのか亡きなのか、どっちかは微妙にわからない。
少なくとも今はもう近くにはいないことだけは確かである。
なんかここで描かれている世界は、どこか芸能人とか、普段なかなか会うことのない知人の死に遭遇した時の感覚に似ていると個人的には思っている。
日常的に会う人であればともかく、たまにしかみない人、人伝にしか聞かない人の存在は、日常的には意識されない。
ただ知っている人には元気でいて欲しいと思うし、多分そうしているんじゃないだろうかと勝手に思っている。
もっともこの曲の中の少女はもっと瀬戸際にいるから、本当はそんな能天気な思いの中にはいないはずなんだけど、結局周りからしたら彼女には興味がないんだろうと思う。
そのドライな視点と激情の歌い方の対比がある種リアルな表現になっていて、すごく重たい曲だと思う。
あの夢と歌われるのは、いわゆるやりたいことみたいな意味での夢ではないんだろうなという気がする。
存在に気づくだけでいいの、というのは多くの人にとっても共感的に受け取れることではないだろうか。
人は一面的ではないし、見る方向や、人によって評価や受け取られ方は変わるので、ある側面ばかりがその人の価値として定義されると、それが窮屈に感じられることもあるだろう。
よくいう本当の私、みたいな存在はそうやって生まれるのかもしれないけど、どっちも本当なんだよね。
ただ、一つの価値の中に押し込めらるとしんどくなってしまうのよ。
だから1人の人に全てを見せることはなかなか難しいし、だからこそいろんな人と関わるんだと思うけど、それがなされる前に限界を迎えてしまうことがあるんだろうな。
人に救われることはあるけど、最後は誰にも救われない。
救ってくれる人がいないっている意味じゃなくて、多分そういうものなんだと思う。
そこで踏ん張るか、もう嫌になってしまうかだけなんじゃないだろうか。
まあ、こんな環境だし、先々のことを考えると、このまま生きていて一体何を得られるんだろうっていうことは、結構本気で考えるよね。
私には子供も妻もいないし、恋人もいない。
両親はいるけど、してあげられることは何もないから。
そうなると、毎日必死に仕事して、一体何のために金を稼ぐのか、なんてつい考えてしまって、酒を飲むくらいしかやることがなくなってくるのだよね。
それなりに趣味もあるけど、それはただの時間潰しでしかないからな。
私も「あの夢」に出会っていれば少しは違うのかもしれないけど、残念ながらそれらしいものは見つかっていない。
存在していないと感じてしまう状態は、一番辛いですからね。